貴方がいない
56:非日常
「藤堂さん」
「藤堂さぁん」
「藤堂さん!」
様々な音程だが呼んでいるのは一人だ。丸い眼鏡がきらりと輝く。その奥の瞳は簡単には心情を窺わせない狡猾さを秘めていた。髪は瞳と同じ暗緑色。一見すれば黒髪に見えるのだが実は緑の艶を持っている。切りそろえられた前髪がさらりとなびいた。
普段から明るい気性なのだが藤堂と二人きりになると途端に豹変する。まるで子供のように藤堂に飛びつきその腕で抱きしめてくる。まだ少年のようなしなやかさを持つ肢体。柔軟な筋肉に支えらえたその手足は伸びやかにジェスチャーした。
「藤堂さん」
寝台に腰掛けた藤堂を見て朝比奈も寝台に飛び乗り藤堂の首に抱きつく。自身より幾分か高い体温の所為か朝比奈に抱かれていると陽だまりにいるような気分になる。ほのかに熱を持つその体。藤堂は朝比奈の好きにさせている。それをいいことに朝比奈は藤堂にべったりくっついて離れない。それはまるで分離するのを恐れているかのように。
「藤堂さん、何読んでるんですか」
手に持った小冊子を見咎めた朝比奈が問うと藤堂はさらりと返事をした。
「ディートハルトから借りた本だ」
途端に朝比奈の頬が引きつる。目を眇めて意味ありげに小冊子の表紙を眺めた。
「なんか裏があるんじゃないですか」
「さぁな」
藤堂は興味なさげだが朝比奈が食いついた。借りてきたという本をディートハルト自身であるかのように睨みつけている。
「だいたい、あのブリタニア人好かないですよ」
「…お前にしては珍しいな」
明るく外交的な朝比奈がその人となりも知らずに非難するのは珍しく、藤堂は目を瞬かせる。悪く言えば軽薄、良く言えば外交的。四聖剣の中でも若い朝比奈は特にそれが顕著だった。ゼロが率いるこの組織の中でも言葉を交わすくらいの相手なら何人もいそうだ。
「気付いてくださいよ、藤堂さん」
縋るように懇願するように朝比奈が言った。当の藤堂はまったく意味が判らず朝比奈を見つめるだけだ。その子供のように無垢な表情に朝比奈は抱きしめる腕に力を込めた。
「あの男、いやらしい目で藤堂さんのこと見てますよ」
眼鏡の奥の瞳が理知的に輝いた。若輩のわりに朝比奈は妙に悟ったようなことを言う。色恋沙汰については特にそうだ。
「そうか? ただの興味本位だろう」
「絶対、違います」
頓着しない藤堂の言い草に朝比奈は唇を尖らせたがそれ以上言わずに口を閉じた。こういうことは水掛け論になるのが関の山だ。それを知っているから藤堂はむやみとその話題を持ち出したりしないし、朝比奈も必要がない限り口にしない。
黙った朝比奈の心情をその細腕が雄弁に語る。まるで離さないといわんばかりに腕に力がこもる。藤堂は少し息苦しく思いながらもそれでも朝比奈を無下に突き放すことはない。その代わり朝比奈に非があるときは藤堂も容赦しない。そんな関係を築いている。
「失礼」
響いた声に朝比奈は顔を歪める。藤堂は小冊子から目を上げた。先刻まで話題に上っていた当のディートハルトが顔を出したのだった。
「ディートハルト」
「お暇なら相手をお願いしたかったのですが。お邪魔でしたか」
「邪魔だ」
「朝比奈!」
藤堂の叱責に朝比奈は口を閉じた。だがその眼差しは油断なくディートハルトを睨みつけて隙がない。仮にも四聖剣の一人だという自負はある。
「本を返しにいこうかと思っていた」
「それはそれは。また別なものをお貸ししましょうか」
朝比奈の腕を解いて藤堂が立ち上がる。すらりとした立ち姿。くびれた腰が軍服の上からでも見て取れた。
「藤堂さん、すぐ帰ってきますよね?」
まるで置いていかれる子供のように頼りなげに朝比奈が声を出す。藤堂は短く頷くのをディートハルトは哂うように眺めていた。朝比奈は大人しく腕を離す。
「では、お借りしていきますよ」
意味ありげな言葉が妙に引っかかる。朝比奈の心を嫌な予感が占めていく。
「こちらに」
恭しくお辞儀をしてディートハルトは藤堂を自室へ導く。その蔵書は数少ないながらもその内容は多岐に渡り藤堂は目を見張ったものだった。興味のつきないその部屋へ、藤堂は何の迷いもなく足を踏み入れた。
「どうぞ、お好きなものを」
「すまない」
記憶を頼りに小冊子をしまい、新たな小冊子を引き出してはページを繰る。夢中になる藤堂の後ろでディートハルトは静かに扉を閉めていた。無心に蔵書をあさる姿は微笑ましく普段の藤堂を知る者からすれば予想だにできない姿だった。それは子供のように貪欲に知識を吸収していく。
その肩に手を置くと藤堂が振り返った。子供のように無邪気で無垢な、顔をして。
「ディートハルト?」
「貴方は本当に罪な人だ」
言うが早いかけられた足払いに藤堂は受身を取るので精一杯だった。寝台の上へ、押し倒される。圧し掛かるのはディートハルトだ。寝台がギシリと軋んだ音を立てる。
かっちりとした襟の軍服の留め具を外して乱していく。現れた胸にディートハルトは唇を寄せた。強く吸った箇所が紅く色づいていく。それは浅黒い皮膚の上、妙に卑猥な。
「本当に、罪な人だ」
「やめろ」
静かな、それでいて確かな怒りを湛えた声にディートハルトは聞こえなかったかのように唇を寄せる。紅い、刻印を刻む。つんと立った突起を口に含めばびくりと震える。どこまでも初心なその反応にディートハルトは満足げな笑みを浮かべる。
「やめろ」
「嫌ですよ」
クスクスと喉を震わせてディートハルトは哂った。その肌へ唇を寄せる。愛しむように、それでいて割れ物を手にした子供のように横暴に。藤堂はそれを享受している。
「ディートハルト」
いささか乱暴に扱われながらも藤堂の声からは凛とした張りが感じられた。それは誰も寄せ付けない。冷淡にすら感じる藤堂の態度に通じているようで。
「やめろ」
「嫌です」
刹那、しなった腕をディートハルトは体を引き剥がしてすんでのところで避けた。それは藤堂がわざとディートハルトに避けさせたのだとわかる。藤堂の目的が暴力ではなくディートハルトを退かすためなのだと、知れる手加減の仕方。重しのなくなった藤堂は体を起こす。開いた軍服の奥に眠る体に何箇所にもわたって紅い刻印が刻まれていた。
「仕方ありませんね、今日のところはこれで引き上げますよ」
それでもディートハルトは余裕を見失わない。
「本はいいんですか」
「もうこない」
だから借りないと言っている藤堂をディートハルトは哂った。どこまでも生真面目なこの軍人は。だからこそどこか緩んだ自身にはひどく魅力的に映るのだと。
「また今度」
藤堂は返事をせずに部屋を出た。ディートハルトの口付けで体の熱が上がり始めているのが判る。冷たい壁に頬を寄せ体温を逃がしていく。すぐに壁は人肌に温んで同化したような錯覚すらさせる。ずるずるとしゃがみこむと冷たい壁に頬が触れる。それだけは気持ちよかった。吐き出す息は熱く。気付けば乱れたままだった軍服の襟を整える。留め具の奥、熱く火照った体が眠っていると。ディートハルトの目が忘れられない。どこまでもどこまでも犯すような視線。
「…ッ、は、ぁ」
喘ぐように喉を痙攣させる。渇いた空気に喉が引きつるのが判る。部屋に戻って水でも飲もうと立ち上がる。その足元がぐらりと傾いだ。慌てて壁に縋りつく。そのまま壁を伝うようにして自室へと戻った。
「藤堂さん!」
扉の開く音を過敏に聞きつけた朝比奈の甲高い声が耳をつんざいた。寝台の上に膝を抱えて座っていたのだろう朝比奈が寝台を下りてくる。それは心から安堵したような顔をして。
「大丈夫でした?」
「…あぁ」
渇いた喉が引きつって痙攣した。ただ水を飲みたかった。
「嘘吐き」
朝比奈の声が妙に冷え切っていた。その手がバリッと襟を乱す。奥に眠る体の首筋、鎖骨、胸の上に紅い刻印が刻まれている。その刻印の上を忠実に朝比奈がたどっていく。
「アイツに何されたんですか。こんなに、して」
「何も」
されていないといった藤堂の言葉を朝比奈は不遜に笑い飛ばした。
「藤堂さんは嘘つくの下手だからすぐに判りますよ」
朝比奈の目が眼鏡の奥で冷えていた。冷たい瞳。奥の知れない色合いが不安をあおった。
「アイツに、何されたんですか」
それは逃げもごまかしも許さない真摯な。神に誓うような真摯さで朝比奈は問うた。
「そうやって、唇を乗せられた、だけだ」
「本当に?」
「あぁ」
藤堂はそれに負けない真面目な視線で返事をする。朝比奈の目が潤んだように煌めいていた。深い緑柱石のような硬質な瞳。
「だったら、いいんですけど」
朝比奈はそれでも離れがたいと言いたそうにに抱きついてきた。くびれた腰に腕を回しその腰を抱き寄せる。それでいて抜かりなく部屋の扉を閉めて外界をシャットダウンする。
「それだけだ」
「なら、いいです」
藤堂の言い切る様子にそれだけで朝比奈は相好を崩して笑った。それは無垢な子供のように信じきった笑顔で。抱きつく腕に力がこもった。
「藤堂さん」
あぁ、戻ってきた
貴方のいない非日常から
貴方のいる日常へと
戻って、きた
朝比奈は、笑っていた。
《了》