誓うように謳うように


   53:幾つかの選択肢

 「――ッ、は、はぁ…ッ」
荒い呼吸。肩で息をする。突然クリアになる視界。今まで見ていたそれが夢なのだと、知る。伸ばした手は虚空に浮かんでいた。明かりを消した部屋の暗さ。それぞれの寝息が部屋に満ちていた。
「…藤堂、さん」
嫌な予感に体を起こす。ふらりと部屋を出るその背は誰にも見咎められず。目的の部屋まで行き着く。寝息に満ちた部屋を出て、愛してやまない人の部屋へと向かう。安寧を手離したような心細さ。扉をノックする前に逡巡する。

迷惑、かも
いない、かも

こんな時間に

己の行動を選択、する

それでも心を決めてノックする。返事はない。もしやいないのかと扉を無理矢理開けた。
 寝台の上に丸まっている人影に座り込みたいほどに安堵する。

あぁ、いた

そっと歩み寄るとその人影は気付きもせず寝息を立てている。気配を、消す。
 闇に紛れて見えないが、寝息は規則的だ。一定のリズム。不安を払拭するその人影は。
敬愛してやまない、人。藤堂鏡志朗。廊下から漏れる明かりのみだとちょうど覗き込む自身が影になってよく見えない。キツく吊り上がった眦も今はなりを潜めている。閉じた目蓋にそっと指を這わせる。

よく、寝ている

薄い皮膚のすぐそこに眼球がある。柔らかで危ういそんな幻想に包まれる。
 「藤堂さん」
囁くような小声に、それでも眉根がピクリと寄った。気配に敏いこの人のことだ。気付いているのかもしれないと。ふと、そう思った。
「藤堂、さん」
いなくなっていなくてよかった。貴方がいて、よかった。
部屋の前で引き返さなくてよかった。選んでよかった。貴方を起こすことになっても。
 薄い目蓋がピクリと揺れる。扉を閉めると部屋に闇が帰ってくる。闇の中でようやく目が慣れてくると人影がうすぼんやりと見えた。目元まで上掛けを引いて被っている。
その枕元に腰を下ろす。会話はない。けれど充実した何かが確かにあった。
「藤堂、さん」
愛しいその名を紡ぐ。眠っていると思ったその塊から一気に引き込まれる。突然のことに目を見張っていると唇に、フワリと。触れる感触。掛け布を払いのけて伸びた手が自身の襟首を掴んでいた。強く引き寄せる力に逆らえず、唇を合わせる。少し渇いたそれは、確かに。
 「あさひ、な――…?」
不思議そうな、けれど確固たる自信のもとに紡がれた言葉。あぁ、魅入られる。
「そうですよ。よく判りましたね」
暗闇で見えないと知っていながら朝比奈は笑んだ。たまらない感情。口元が知らずに笑んでいた。
「何故」
「いやーちょっと嫌な予感がしまして。藤堂さん、いなくなったりしてないかなーって」
あはは、と渇いた笑いにそれでも上体を起こす気配がする。藤堂の手が壁を探ってスイッチを入れる。ぱちんと言う音の数瞬後に部屋に明かりが満ち、闇が払拭される。
 「朝比奈?」
藤堂のまだ寝ぼけた目が朝比奈の姿を捉える。ともすれば落ちてくる目蓋を必死に押し上げているだろうことが窺えた。
「藤堂さん」
にっこりと朝比奈は笑顔を見せる。軽薄だと評された笑顔。けれど人好きのする笑み。
「どうした、こんな…時間に」
お前らしくもない、と呟く藤堂に朝比奈は言葉を繰り返す。
「だからー、嫌な予感がしたんですってば。藤堂さん、いないかもって思って。そしたらいてもたってもいられなくなって」
部屋まで着ちゃいましたと笑う。その心を隠して。
 藤堂の鳶色の目が朝比奈を射抜く。ゾクゾクするような、感覚。
いたたまれないような、それでいてこの視線から逃れるのが惜しいような。
「ちょっと夢見が悪かったもんで」
すいませんと先手を打って謝ると予想通り藤堂が言葉に詰まった。
 「珍しいな」
完全に上体を起こした藤堂が呟いた。人工的な明かりはすべてを暴こうと。すべてを照らす。その明かりのもとで朝比奈は必死に笑った。
「オレだって不安にくらい、なりますよ」
それは真実。嘘偽りのない、心情だと。
朝比奈の目が眼鏡の奥で眇められた。暗緑色の髪と同じ目の色。目の上を縦に走る傷痕。そこだけが妙に浮き上がって見えた。際立つ、傷痕。
 「藤堂さん」
朝比奈が試すように言葉を紡いだ。
「オレ」
そこで朝比奈の言葉が途切れた。体がものすごい力で引きずり込まれる。人の体温に温んだ布団の中に引きずり込まれる。温かなそれは皮膚を破って流れ出ていきそうな。
「藤堂さ」
「眠れないのか」
寝台の上に引きずりこまれて抱きしめられているのだと気付くまで間があった。温かなそれに、間を置いて気付く。
 「と、藤堂さ…!」
ドクンドクンと心臓が脈打つ。慌てる朝比奈をよそに藤堂は不思議そうな顔をしている。
「どうした?」
「どうしたって、そりゃ」
いきなり寝床に引きずり込んで何を言い出すのだこの人は。手を出しかねている朝比奈を哂うように。いきなりこんな。
「な、なんだって寝床に引きずり込むんですか!」
「…いやお前が」
「オレが?!」
恐慌状態を来たしている朝比奈の声が裏返った。理性の糸が切れそうだ。人肌に温んだ布団に包まれてなお理性を保てという方が無理だ。
 
 「人肌が恋しそうに見えたからな」

朝比奈の目が見開かれていく。藤堂は当然のように言い放ち、抱きしめる腕の力を緩めたりしなかった。それがひどく好かったなんて。当然、言えなくて。人肌恋しいなんて。そんな、そんなこと。
「藤堂さん」
朝比奈は縋りつくように抱きついた。藤堂は思ったとおりそれを黙って享受している。
そんな心遣いすら、ときに憎くなる。
「…抵抗、しないんですね」
意地悪いとわかっていながら朝比奈は言葉を紡いだ。藤堂は黙ってそれを聞いている。
「襲っちゃいますよ」
「お前は、そんなことはしない」
あぁ。それだけで。それだけでこんなにも。

――満ちる

すべてが、何もかもが。満ち満ちていく。
 「…意外と、意地悪ですね。藤堂さん」
「そうか」
理由のない叱責すら甘んじて受ける。それだけ藤堂は朝比奈に気を許していると。
それは朝比奈を甘く、責め立てる。
「まわりくどいのは嫌いなんです」
「そうか」
「藤堂さん」
「なんだ」
「好きです」
藤堂の返事はない。気付けばうつらうつらと舟をこいでいた。眠かったのだろうところを無理に起こしたのは朝比奈だ。突然圧し掛かる責任に朝比奈は喘いだ。
 「藤堂さん」
「すまない、眠くて」
本当にすまなさそうなのだから始末に悪い。いっそ眠ってくれればいいものを。
「気にしないでください」
朝比奈は笑んで返事をする。それが藤堂の目に映っていないことを承知で。
「すまな、い」
カクンッと首が折れる。浮き上がった頚骨がよく見える。コツコツとした突起のそこを優しく撫でる。コツコツと触れる頚骨が心地好かった。
薄着な寝巻きは体に毒だった。綺麗にわずかに湾曲した鎖骨が見える。浅黒い皮膚。布一枚越しに触れる体温。あまりに無防備なそれには怒る気力すらわいてこない。
 頚骨から真っ直ぐ続く背骨は今が眠気によって頭を支えきれすに曲がっていた。その背を、布一枚越しに撫でる。
「藤堂さん」
朝比奈の頭にまるでクイズ番組のように選択肢が浮かぶ。

このまま何もせずに帰るか

無理矢理、押し倒すか

「ホント、意地悪ですよね」
すっかり夢の中にいる藤堂に抱きついて朝比奈は嘯いた。長身の体は今はきっと朝比奈の思うままになるだろう事が知れる。腕の中で眠る、体。
 そっと寝台の上に寝かせる。その上体の上へ圧し掛かる。
唇を合わせても藤堂は眠っていた。
「藤堂さん」
すっかり深い眠りの中にいる藤堂を朝比奈は起こさなかった。それは臆病な、朝比奈の策。
「オレ達のいないところに行かないでくださいね」
どこか臆病な小動物のように朝比奈は囁いた。藤堂からの返事は期待せず。
ただ眠る藤堂へ囁く。
 その筋肉質だが細い体に抱きつく。抱きしめる腕が、震えた。
「藤堂さん」
言葉は紡がれずに虚空に消える。ただ、名前だけを。呪文のように。
完全に無防備になって眠る藤堂の口元へ唇を寄せる。それだけを気を許せる相手なのかと朝比奈は自嘲した。
 寝台がギシリと軋んだ音を立てた。意外と響いたその音に肩が跳ねる。それでも藤堂は眠ったままだ。よほど深い眠りについていると見える。
「それって、信頼ですか」
哂うように朝比奈は呟いた。これほどまでに無防備な藤堂を見たことがない。
「藤堂さん」
朝比奈はただ、名を呼ぶ。
「オレはそんなに」
口元が、哂った。女のように紅い唇が弓なりに反る。
「好い人じゃあありませんよ?」
煌々と照らされた明かりのもとへ眠りに突く藤堂と唇を合わせる。男の体の中でも数えるほどしかない柔らかな箇所。ほのかに色づいたそこへ唇を這わせる。鴇色になった唇は甘美な。甘い、菓子のような。
 「そんな無防備な姿」
朝比奈が再度口付ける。甘い菓子のように、何度も何度も。
「他の誰にも、見せないでくださいね」
誓うように謳うように。朝比奈は囁く。

幾つもの選択肢を越えて
ここにいる

ここに、いる


《了》

ムリヤリお題…ダメだこりゃー   04/14/2007UP

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