それ、は
52:偶然という名の必然
休日は基本的に自由行動だ。だからこそ、ルシードはこうしてここにいる。
少し先を歩く長身の男はゼファーだ。元々刑事を目指していただけあってか尾行は下手ではないと自負している。それでもゼファーという男はどこか計り知れない。幼い頃から一緒にいたがいまだにどういう人物なのか明確には掴めていないのだ。大体、二十代のくせに趣味が盆栽いじりに石磨きという時点でかなり不可解だ。ずいぶん年老いた趣味だとルシードでなくてもそう思う。
商店を冷やかしてい歩く背は高く、ルシードは悔しいが追いつけていない。蝶の翅をあしらったロングコート。襟ぐりの開いた黒いシャツ。長い栗色の髪。暗緑色の瞳。
顔立ちは整っている部類に入るだろう。だが見かけだけで判断すると痛い目にあう。あれで思慮深く、その考えは他の追随を許さない。頭も良く知識も豊富、切れ者である。
「また石でも見てんのか」
ちょっと目を離した隙にもういない。ゲッと呟いて思わずとおりから身を乗り出した。
「何をしている」
背中にかけられた声にびくんっと肩が跳ねる。恐る恐る振り返ると果たせるかな、目標の人物であるゼファーがそこにいた。
「ゼファー…」
怪訝そうな目。何の用だといわんばかりの態度にルシードが泡を食ってまくし立てる。
「いや、あのな、その」
言葉がつかえたように出てこない。ますます睨みつけてくるゼファーにルシードは観念した。諦めのよさも天下一品だ。
「…お前が、休みのときって何しているのか気になって」
ポリポリと頬を掻きながらルシードは言葉を紡いだ。ルシードの言葉にゼファーはますます怪訝そうだ。ルシードは諦めて腹をくくった。
「オレ、お前のこと好きだし」
ルシードの紅い目がチロリと動いた。
「お前が普段、どんななのか気になって」
「だから後をつけたと?」
「なんだ、ばれてんじゃねぇかよ」
思わず呟いた言葉にゼファーがクスッと笑った。鋭い眼光が消え、親しみやすい顔になる。
「相変わらず、馬鹿正直だな」
「うるっせ!」
両脇に垂れた藤色の髪を揺らして怒鳴るとゼファーはますます笑みを深める。
「まぁ、それがお前のいいところでもあるんだがな」
ゼファーはひどく楽しげだ。昔から何がゼファーのツボになるのかまったく判らない。こちらが意識していないことで妙にウケていたりする。
「悪かったな」
ぶすくれるルシードの様子にゼファーが笑う。親しみといった、そんな表情で。
「拗ねるな」
「拗ねてねーよ!」
むくれて歩き出そうとする足が止まる。尾行に夢中でここがどこなのか確認していなかった。ぴたりと足を止めて立ち止まる様子をゼファーは面白そうに眺めている。ぎぎぎっと音がしそうな仕草でルシードが振り返る。
「どうした、ルシード?」
クックッとゼファーが楽しげに笑っている。その様子をルシードは苦々しげに見つめた。
「…ここ、どこだ」
「行きたいなら行ってもいいぞ」
判っているくせにゼファーは手を差し伸べたりしない。にっこり微笑む顔が憎たらしい。
じと目のルシードにゼファーは惜しみない笑顔を向けている。
「…迷った」
「…来い」
ふふっと笑ってゼファーが先に立つ。ルシードが苦いものを噛み潰したような顔をしながらそれに従った。先を歩く速度は早すぎもせず遅すぎもせず、ルシードに丁度いい速度になっている。こんなところで、差を見せ付けられる。昔から。何気ないところで相手を気遣う。
そんな器の大きさが。追いつけない。常に先を行く。
「ルシード」
鬱屈した思考を読まれたかのように声をかけられびくんと体が震えた。
「飯でもおごるか」
「やり!」
思わず指先を鳴らす様子にゼファーが笑った。その笑顔が。
見入る美しさ。心を許した相手だけに見せるような、無防備な、笑顔。
暗緑色の目が、愛しそうにルシードを見つめていた。表情は無防備で嬉しげな。たまにしか見れないそれにルシードは人目もはばからず見とれた。
――惚れる
たまにしか見せない、だからこそ貴重な。ルシードの目がパチパチと瞬いていることにゼファーが気付いた。不思議そうにルシードを見つめてくる。
「どうした?」
訊ねる様子はどこまでも親愛の情に満ちていて。ぶしつけな質問すら許されるだろうという安堵感。鋭い眼光のゼファーは誰も寄せ付けない。手負いの獣のようなそれに見つめられるといたたまれなくなる。けれど今はまったく違う表情を見せていて。
それは、己だけなのかと。錯覚、する。
「んぁ?! …あぁ、なんでもねぇよ!」
気付いたルシードが振り払うように言葉を紡いだ。ずかずかと先に立って歩く背が照れていると語っていた。フッとゼファーの顔が緩む。
「ほら、飯! おごってくれるんだろ? この間みたいに格式高いトコは嫌だぜ」
「おごられる立場でよく注文をつけるな」
「うるっせ! いいから、早く」
ルシードが焦れた子供のように手招きする。その様がひどく愛しかった。
迷路のような路地は迷い込んだ人間を助けてはくれない。ゼファーはルシードの手を引いて歩き出す。カッとルシードの頬が紅く染まる。
「…どうした?」
試すように笑うゼファーの様子にルシードは黙り込む。つないだ手は暖かくて。離し、がたい。それは故郷にいた頃を思い出させた。二人でコッソリ造った隠れ家に行ったときのような。語れない秘密を共有する者同士の密接な何かのような。
「故郷にいるとき以来か。こうしてお前の手を引くのは」
ゼファーの言葉にルシードが目を見張る。知らぬげにゼファーは歩く。ルシードは遅れないようにするので精一杯だった。
長い髪が翻る。栗色のそれから匂い立つような甘い香りが漂う。それがゼファーの使っているシャンプーの香りだと気付くのに数瞬かかった。市販されているそれからそんなに官能的な香りがするわけもなく。それがゼファーの仕草や他の何かからするのだと。気付くまでに間があった。
「ルシード」
「なッなんだよ?!」
やましいことを考えていただけに声が裏返った。それをゼファーは怪訝そうに聞き流した。
「お前の手は、暖かいな」
フッと微笑まれてルシードは紅い瞳を瞬いた。兎のように紅い、紅色の瞳。いつだったか血のようだとゼファーに評された。藤色の長い髪も。ゼファーに綺麗だといわれて伸ばし始めた。ただ、ゼファーが髪を伸ばしていることを知ってなお。ルシードは髪を伸ばし続けた。
ゼファーは官能的に笑んだ。唇が薄く広がる。弓なりに反るそれに目を奪われた。確かに整っているのだが人を突き放したようなそれに、見入られる。
手に、入らないような。そんな幻想を抱かせるだけの魅力が、あった。
「ゼファア」
思わず口をついてでたのは幼い頃の呼び名。どこか懐かしいそれにゼファーは痛いような表情を見せる。胸の奥底をさす、言葉。
「ルシード、ずいぶん懐かしい名で呼ぶな」
「うっせ!」
からかうように言うゼファーの言葉にルシードはそっぽを向いた。照れも含んだその仕草にゼファーは笑むだけだ。懐かしい呼び名に、そんな痛いような。そんな顔をして。
「ルシード」
「なんだ?!」
思わず身構えるルシードをよそにゼファーは言葉を紡いだ。
「好きだぞ」
「おまッ」
パクパクと水から上がった魚のように口を開閉するルシードの様子を知らぬげにゼファーは歩を進める。迷路のような路地は何度歩いても憶えられない。気付けば前にあったはずの日の光を後ろから浴びていた。入り組んだそれは迷路に近く、そう簡単には順路を教えてはくれない。そんな路地をゼファーはよく知っている道のように迷いなく歩いていく。そこに、数年の隔たりを感じる。自分がまだ故郷でのうのうと暮らしていた頃、ゼファーはこの路地に悪戦苦闘していたのだろうかと。思いをはせる。
大きな通りに出る。ようやく抜け出した路地は薄暗く、よく抜け出せたものだと舌を巻く。この隔たりを。感じずにはいられない。
「…誰かに手ェ付けられてなきゃいいんだけど」
呟いた言葉を訊きたげにゼファーが目を向けたが、結局何も言わずに手を引いて歩き出した。人目をはばからず手を引いて歩く様子にルシードの方が慌てた。
「ゼファー!」
「なんだ?」
「手! いい加減離せ!」
「あぁ、悪い」
たった今気づいたような顔をして。手を離す様子は未練など感じさせずに。
「しかし」
「なんだよ」
「お前が尾行とはな」
クックッと笑うゼファーの様子にそんなに自身はお粗末な尾行をしていたのかと省みる。保安学校をそれなりの成績で卒業した自負はある。そんな笑われるようなお粗末さだっただろうか?
ゼファーは長いロングコートの裾を上手く捌いて歩く。その背を見失わないようにルシードは懸命に追った。大きな通りだからと油断するとすぐその背は人ごみに紛れてしまう。
決して安寧を許さないその態度は、きっと自身を思いやってのことなのだと勝手に結論付けている。そうでも思わなければやっていけない。
「なぁゼファー」
「なんだ?」
人ごみのざわめきが耳鳴りのようにこだます。その中でゼファーの声だけが異色の輝きのように。際立つ。
「なんでオレの尾行に気付いたんだ」
「視線を感じた」
しれっと言い放つそれは人間離れした感覚。尾行に気付いたそぶりなど見せなかった。
「だったらさっさと言えよ!」
「いや、目的が判らなかったのでな」
様子を窺っていたと。そう言うのか。ルシードは思わず脱力した。
「だったらさっさとそう言えよ!」
「お前が何故だろうと思ってな」
罪のない言い草にルシードはぐうの音もでない。
「お前は理由もなくそんなことをする人間じゃないしな」
クスッと笑って暗緑色の目が笑った。ムッとするルシードをよそにゼファーは歩を進める。
「…ったく」
肩の力を抜く。怒りがまるで空気のように抜けていった。
「なぁ、ゼファー」
「なんだ?」
「俺がつけてたって、どうして訊かねーんだ?」
目を瞬かせて問う様子にゼファーは沈黙する。無邪気に、罪のない。紅い瞳がゼファーを射抜く。
「言っただろう。理由もなくそんなことをする輩じゃないことは知っていると」
ゼファーの目が泳ぐ。不思議なその仕草にルシードは目をつけた。
「オレの尾行に気付いたのは?」
「ブルーフェザーを出て少ししてから、だな」
正直な言葉に裏はなく。ルシードは勘繰るようにゼファーを見つめた。紅い瞳が。
ゼファーの逃げを許さない。
「背中が引きつるような感じがしてな」
視線を感じた、とゼファーは言葉を紡いだ。ルシードは不満げだがふぅんと頷いた。
「…オレってやっぱお前には敵わないのかな」
自嘲するような響きにゼファーの方が目を見張る。ルシードはいつだって自信ありげに。周りそれを望んでいた。それを知っているからなお。驚き、が。
「敵う敵わないの問題じゃないだろう」
切っ先を横にずらすようにそう言うと安堵したようにルシードは笑んだ。
「ゼファー、あっちに屋台がある」
「そうか」
安堵したようにその腕に体重を寄せてルシードが言った。ゼファーもそれに安堵する。不安定なルシードなど望んでいないのだと。思い、知らされる。
長い藤色の髪。紅い瞳。稀有なその色彩は。彼が劣性遺伝で出来た人物なのだと。危うい、脆さ。気を抜けば失われてしまいそうなその感覚。
「何を食う」
「そだなー」
献立を選ぶその様は歳相応で。唇に指先を当てて考え込んでいる様はルーティにも似た。幼い、仕草。
「決まったか?」
「お前は?」
答えるように注文を飛ばすとルシードも負けじと注文を飛ばす。
「まったく、食事をおごる破目になるとはな」
にやりとルシードが笑んだ。
「偶然か」
「必然だろ?」
呟いた言葉にかぶさるようにルシードの声がした。正反対の言葉を紡ぐその唇が。
「確かに」
クックッと喉を震わせて笑う。くすぐったいようなそれにルシードは目を瞬いたがすぐににやりと笑った。
「違いない」
ゼファーの言葉と同時に屋台から食事を受け取る。ゼファーは支払いを済ませながら既に食事にぱくついているルシードを窺い見た。
腰まである長い藤色の髪は顔の両端が長い。兎のように血のように紅い瞳。目は真っ直ぐにゼファーの体を射抜く。迫力のあるそれに敵わないとルシードは知らない。
自身よりまだ小さい背。けれど力に満ち満ちたその背は。
ゼファーは食事を受け取るとルシードの手を引いて席につく。ルシードは導かれるままに椅子を引いた。座ると大通りを行き交う人々が絵画のように見て取れた。
「なぁ、お前さ」
「なんだ」
手の中の食事をもてあそびながらルシードが問うた。
「何見てたんだ?」
「何を?」
「店だよ! 店!」
真っ赤になって言い返すルシードの様子が愛らしい。フッとゼファーの口元が知らずに笑んだ。
「ただの骨董だ」
「なら、いいんだけどさ」
不満げに唇を尖らせる様子にゼファーは首を傾げた。背中の引きつるような感覚を感じていた所為か店先などろくに見ていなかった。ルシードが興味を示したのも意外だった。
「必然てこぇーな」
「偶然じゃないのか」
「必然だろ?」
オレがお前を気になって
だから
必然だと
ゼファーの唇が薄く広がった。その動きにルシードの眉がピククッと引きつった。
「笑うな!」
「いやまだ笑ってない」
「これから笑う気か!」
ルシードの言葉にゼファーは浮かびかけた笑みを必死にかみ殺した。
《了》