貴方が
50:どうしてここにいるのだろう
「おや」
意外そうな響きの声に視線を向ける。丸い眼鏡の奥の瞳が嫌そうに眇められた。ムッとした雰囲気をものともせずディートハルトは問うた。
「藤堂中佐は?」
「いるけど…」
「なら結構」
「待てよ!」
部屋に入り込もうとするのを朝比奈が体で阻んだ。
片目を眇めてディートハルトが朝比奈を見やる。色に煌めく瞳が朝比奈を射抜いた。
「貴方には関係ないでしょう」
「大有りだよ!」
朝比奈は体を戸口から退かそうとはしなかった。小柄な体を退かせずにいてディートハルトは舌打ちしそうだった。藤堂のそばに四六時中くっついている朝比奈は目の上のたんこぶのようだった。
「私は藤堂さんに用があるんですがねぇ」
いつの間にか敬称を略して藤堂のことを呼んでいる。その馴れ馴れしさにはブリタニア人独特の姿勢が窺えて、朝比奈はそれをフンと鼻で笑った。
「藤堂さんにはオレが先約だよ」
その物言いにディートハルトの眉が動いた。意味ありげに息をついて朝比奈を見下ろす。
「藤堂さんは子供のお守りまでするのですねぇ」
「どういう意味だッ!」
カチンときた朝比奈が怒りのままに声を荒げる。その背に声がかけられた。
「朝比奈?」
「藤堂さん!」
クルンと振り向くその顔が嬉しげだ。惜しみない笑顔を藤堂に見せているだろうことが窺える。切りそろえられた髪ががさらりと風になびいて翻る。
「どうした朝比奈」
「何でもないですッ! 奥で待っててくださいすぐ行きますからッ」
朝比奈は藤堂を部屋の奥にとどめた。それをディートハルトの声がぶち破った。
「藤堂さん」
「…ディートハルトか?」
「藤堂さんッ」
甘い声に藤堂の怪訝そうな声が返る。悲鳴のような朝比奈の声がかぶさった。
ひょこりと怪訝そうな顔が覗くのを朝比奈が必死に押しとどめようとしている。浅黒い皮膚の男の顔が覗いた。吊り上がった眦は凛とした雰囲気をかもし出している。
「藤堂中佐」
にっこりと人好きすのする笑みをディートハルトが浮かべる。
「何しているんだ」
「少しお話を窺おうかと思いましてね」
「誰の」
「あなたの、ですよ。藤堂中佐」
「帰れ!」
悲鳴のように甲高い朝比奈の声に藤堂は首を傾げた。その顔が怪訝そうだ。
「朝比奈、どうした」
ディートハルトが藤堂に見えないところでクスリと笑った。それがさらに朝比奈の気分をささくれ立たせる。潤んだ暗緑色の瞳がギッとディートハルトを音がしそうなほどに睨みつける。眼鏡の奥の目が涙に潤んでいた。それを肩をすくめてディートハルトは受け流す。
「彼が入れてくれないのですよ」
「? どうした、朝比奈」
「藤堂さん…」
怪訝そうな藤堂の無邪気な顔に朝比奈が脱力する。ディートハルトはここぞとばかりに言い募る。外国人特有の大きな身振りがそれを増長した。
「入れてやれ、朝比奈」
「はぁい…」
怪訝そうな藤堂が奥に引っ込む。朝比奈は名残のようにディートハルトを睨みつけてから自身も奥に引っ込んだ。その後をディートハルトが追う。
部屋は無駄なものなど何もなく、硬質に整えられていた。人を寄せ付けない冷たさが部屋の調度類にまで及んでいる。藤堂は部屋に一つの椅子をディートハルトに勧めた。
「これに座れ」
「ありがとうございます」
ディートハルトがにっこりと微笑む。藤堂は寝台に座り、その横に付き従う騎士のごとく朝比奈が立ったままよりかかる。腕を組む様子からは彼がディートハルトを完全には許していないのであろうことが知れた。鋭い眼差しはディートハルトをいつ追い出そうかと爪を研いでいるようでもあった。
「貴方には以前から興味がありました。厳島の奇跡、貴方を慕う人々…メディア関係者としても個人としてもあなたにはとても興味があります」
「…それは光栄だ」
朝比奈は何か言いたげだったが何も言わずに口を閉じた。それをいいことにディートハルトは席を立つと藤堂のすぐ目の前まで歩み寄る。
座った藤堂が見上げて上目遣いになるのを勝者の余裕のような笑みで眺めている。長い指が藤堂の下顎を捕らえた。反らそうとするのを捕らえて離さない。
「言ったでしょう。あなたには興味があると」
言うが早いかディートハルトは口付けた。乾いた唇の感触。そのほのかな熱に魅入られる。
少しかさついたそこは男の体で数えるほどしかない柔らかな場所。ふわんとした感触にディートハルトはさらに深く藤堂の唇を吸った。
「お前なぁ!」
早速噛み付いてくる朝比奈に目線だけを向ける。藤堂は大人しく口付けられている。
驚きに見開かれた瞳は鳶色だ。美しい、色。
「驚きませんね」
クッと喉を震わせて哂うと藤堂はしれっと言ってのけた。
「なんとなく予感がしていた」
「だったら入れないでくださいよこんな危ない男!」
朝比奈が縋るように叫んだ。ディートハルトは心外だと言わんばかりに肩をすくめる。
「危ないだなんて。心外です」
「ちょっと黙ってろお前はぁッ!」
「朝比奈」
藤堂の声に朝比奈はぐぅといって言葉に詰まった。何かいいたげに脚をじたばたさせる。
「予感、ですか。意外ですね」
指先が下顎をなぞり首筋を伝ったかと思うと頬を撫でている。襟のかっちりした軍服に身を包む藤堂は少しも乱れない。それが何故だがひどく癪に障った。
「じゃあこれも予想の範囲内ですか」
言ったディートハルトの指先がバチンと音をさせてボタンを外していく。襟の詰まった軍服の奥、覗くのは浮き上がった鎖骨だった。綺麗にわずかに湾曲した鎖骨が浮き上がって見えた。浅黒い皮膚。すべてのボタンを外してもなお藤堂は平然としていた。痩せているが無駄のない胸と腹。筋肉に覆われたそこは奇妙に美しかった。
「何をする」
「貴方が許せばなんでも」
「藤堂さんから離れろ変態!」
「朝比奈ッ」
藤堂から飛ぶ叱責の言葉に朝比奈が喉を鳴らして黙り込んだ。それでも何かいいたげに視線を泳がせる。
「ディートハルト」
咎めるような物言いを聞かなかった事にしてディートハルトは現れた胸に手を這わせた。
「興味があるといったでしょう」
「外交的な興味だろう」
「さぁ」
哂うディートハルトは構わずに藤堂を押し倒した。寝台がギシリと軋む。圧し掛かるディートハルトの服の裾を朝比奈が掴んで止めた。片眉だけ上げてディートハルトは藤堂の上から退いた。
「やれやれ。貴方の騎士がご立腹だ」
「朝比奈は騎士ではない」
半裸にされてなお藤堂は無心にそう答えた。その様に朝比奈は歯噛みする。
「部下ですか」
「同志だ」
「お優しいことで」
クッとディートハルトは喉を震わせて哂う。
「離れろ変態がッ!」
噛み付く朝比奈をいなしてディートハルトは部屋を出る。
「また今度、貴方の騎士がいないときにでも続きを」
「二度とくるな!」
「朝比奈」
噛み付く朝比奈を藤堂がいなす。ぴしゃんっと扉を閉める音が部屋に響いた。
「藤堂さん!」
「なんだ」
半裸にされた藤堂から匂い立つような色香が上る。寝台に押し倒された体勢から肘だけで起き上がる姿は目の毒でしかなかった。艶っぽい。けれど手の出せない。恐ろしいような。
「はい、ちゃんと服着てください…全くあのやろう…」
ブツブツ言いながら朝比奈がボタンを留めていく。その手が止まって藤堂の鎖骨をなぞった。なまっ白い指先が藤堂の浅黒い皮膚の上を這う。その様はひどく卑猥だった。
「藤堂さん、オレのこと好きですか?」
「好きだが」
即行で返事がする。だがそれは真実であり真実ではない。痛むようなその言葉に朝比奈は目を眇めた。
「オレに抱かれてくれますか」
「俺が、か」
「はい」
留めたボタンをまた一つ一つ外していく。現れた痩せた腹を朝比奈の白い指先がなぞるように動いた。白い指先はそれだけで良く映えた。発光したように白い指先。浅黒い皮膚の上。
「俺なんかを抱いて楽しいか」
「はい」
返事は短い。それが朝比奈の状態をよくあらわしてもいた。余裕がないのだと、知れた。
ごくりとつばを飲む音がする。
こんなに
こんなにも近く、いて
どうして
どうして
どうして?
――オレはどうしてここにいるんだろう?
部屋の明かりがジジッと音を立てた。朝比奈の目が浄化するように藤堂の体を舐めまわす。
「藤堂さん」
「なんだ」
押し倒され半裸になった状態でもなお、藤堂は余裕を失わなかった。その様は神聖に美しく。圧倒される。朝比奈はズルズルと体を引いた。
「藤堂さん…すいません」
「謝るな」
「オレが」
問うてはいけないと。判っていながら朝比奈は問うた。
「オレがここにいる意味ってなんですか」
藤堂は目を瞬かせた。鳶色の目が不思議そうに朝比奈を見つめてくる。その視線に耐えられない。朝比奈は嫌がるように首を振って目を逸らした。真っ直ぐな鳶色の視線に耐え切れず。眼鏡の奥の目が潤んでいた。暗緑色の髪と同じ色の瞳。
「いてくれるだけでいい」
見る見る朝比奈の目が見開かれていく。
いてくれる、だけでいい?
いてくれるだけでいいなんて。
そんな。そんな言葉。
「藤堂さんッ」
朝比奈はガッチリしているが細いその体を掻き抱いた。目の奥がじんと熱くなる。
きっちりと切りそろえられた髪が乱れる。
「藤堂さん…」
肌の上をサラサラと滑る髪を梳く。朝比奈はされるがままだ。
「藤堂さん、オレのことどう思ってます?」
「…同志だ」
「…ありがとうございます」
少し躊躇ったような間の後に返る言葉に朝比奈はひどく安堵した。
これでいい
これだけでいい
そんな優しいこと言わないで?
胸に耳を当てると藤堂の鼓動がした。とくとくと綺麗で一定の鼓動。
それだけで痛いほどに安堵する。抱きしめる腕に力がこもった。
「藤堂さん」
「なんだ」
「オレの名前、呼んでください」
「何故」
「いいから」
少しためらうような間の空いた後、藤堂の唇が動いた。
「省悟」
あぁ、なんて甘く痛い。
その響きを何度も脳内で繰り返す。省悟。省悟省悟省悟。
「オレがここにいる意味ってなんですか」
「いてくれるだけで良いといったはずだ」
藤堂は油断なく返事をする。甘いその言葉に酔いしれる。
「藤堂さん」
なんて。なんて罪な人。
「貴方が」
あぁ、なんて。
「オレの存在理由です」
目を瞬かせる藤堂を朝比奈は優しく見つめた。その鳶色の瞳も。浅黒い皮膚も。茶褐色の髪も。人を寄せ付けない雰囲気も。何もかもすべて。愛していると。
「藤堂さん」
朝比奈はただその名を呼んだ。
それは神に誓うような真摯さで。
《了》