通じているようで、通じてない
49:通じない
窓から窺い見る人影が見る見る近づいてきた。扉の鐘がカランカランと音を立てて来訪を告げる。あっけに取られているクワイエットをよそに来訪者は怪訝な表情を見せている。
「クワイエット?」
「…アトランダム」
風になびく髪はプラチナブロンドで遠くから見てもすぐ判る。
「図書館はどうした」
「これからだ」
言いながらカウンター席に席を取る。手荷物は重たげでドサリと音を立てた。
「まだ、なのか」
「あぁ」
返される言葉すら短くて様子を窺おうとする人物を寄せ付けない。図書館へ行く前に喫茶店に寄るなどとは普段のアトランダムからは窺い知れない一面だった。
料理を作りながらアトランダムの様子を窺う。風になびくプラチナブロンド。薄氷色に輝く瞳は淡い緑色にも変わると知っている。鋭い眼光は今は鳴りを潜めてノートに向けられている。何か書き付ける手付きは洗練されていて人に不快感を与えない。書き付ける音だけがサラサラと響いていた。その音は心地好く響く。
「アトランダム」
「…なんだ?」
問い返す声がどこか虚ろだ。心ここにあらずといった。目を向ければ熱心に何かを書き付けているところだった。ペンを走らせる音が響く。
「聞いているか?」
「…あぁ」
アトランダムが目を上げる。その目が薄氷色に輝いた。
「聞いているか」
「そう言っている」
問うように言うと不機嫌そうに返事がした。
鋭い眼差しがクワイエットの体を射抜く。
「それにしてもなんで今日はまた早く来たんだ」
なんとはなしの問いだった。アトランダムが目線をずらした。不自然なその動作にクワイエットは興味を引かれた。久しぶりに見せた慌てた様子にアトランダムの様子を窺う。
「何故」
「…貴様の顔が見たくなったからだ」
どくん、と心臓が脈打ったようだった。アトランダムの言葉に心が躍った。
「…それは、本当か」
そう言ったアトランダムの頬は紅い。肌が白いだけにそれはひどく目に付いた。唇が発熱したように紅い。目に、つく。
「アトランダム」
「貴様もいい加減しつこいぞ」
顔を背けて言われても何の迫力もない。ただ愛しいようなその仕草に魅入られた。
出しっぱなしの水道の音が耳につく。野菜を洗っていたはずの手が止まっている。
ついには噴出して笑うクワイエットの様子にアトランダムは噛み付いた。
「何が可笑しい!」
「いや、なんでもない」
クックッと低い声が震えて笑う。心地好く響く低音が耳朶を打つ。その響きを聞きながらアトランダムは再度ノートと向かい合った。集中しようとしているのが気配で判る。そしてそれがことごとく失敗していることも。終いにはペンを放り出してクワイエットへ声をかけてくる。
「クワイエット」
「…なんだ」
ペンを放り出したのは気配で判った。椅子が軋んだ音を立てる。
「なんだってまた、喫茶店なんか」
振り向けば、頬杖をついてアトランダムが見上げるように見つめていた。長い脚を窮屈そうに収めているだろう事が知れる。高い身長。自身も高いがそれにためを張る身長だ。標準よりは群を抜いて高いだろう。
「…気分だ」
「そんなものなのか」
クワイエットの答えに驚いたようにアトランダムは目を瞬かせた。その様はまるで子供のようで。それは末の弟にも似た。無邪気な、仕草。
「そんなものでよく開業できたな」
ずけずけとものを言う。悪態とは別の意味で厄介だ。悪態なら力で押さえ込めるが自身に傾向があるのを知らない物言いなので収めようがない。ただ無作法になっていないのは彼の言う口うるさい弟のおかげなのだろう。
「しかもよくもっているな」
性質の悪い。
「…客があるのでな」
「どんな客だ」
純粋に興味津々な眼差しだ。性質の悪い、言葉。クワイエットが顎をしゃくる。アトランダムはつられたように背後を振り返った。もちろんそこには誰もいない。
怪訝そうなアトランダムの顔にクワイエットは笑みで答えた。
「お前のような、客だ」
途端にアトランダムの顔に朱が上る。白い肌がサァッと紅く染まっていく。
頭を抱える様子にクワイエットは怪訝そうだ。プラチナブロンドは日の光を反射してチラチラと輝いた。
「貴様…性質の悪い、奴め…」
「お前の方がよっぽど性質が悪いと思うが」
しれっと言ってのける様子に罪悪感など微塵もない。潤んだ薄氷色の瞳がグリーンに輝く。
「私はそんな…」
「お前のおかげでもっているというかお前の所為で潰れないというか」
「そんなわけあるか!」
ドンとテーブルを殴る音がする。クワイエットはそれにも臆することなく言葉を綴った。
「まぁ、お前一人じゃあないんだがな。だがこうして喫茶店による物好きも多少いるが」
クワイエットの姿が思ったより近づいてアトランダムは思わず背を反らした。その唇を指先が撫でて離れていく。男の体の中で数えるほどしかない柔らかな場所。過敏なそこを撫でて指先は離れていった。
「感じたか」
「馬鹿を言うなッ」
クッと喉を震わせて笑う様子にアトランダムがすかさず噛み付く。その頬が紅い。
上機嫌で料理を作り出すクワイエットの気が知れずにアトランダムはひそかに呟いた。
「何なんだ…全く」
なぞられた感触は鮮明で。まざまざとよみがえる指先の感触に頬を染める。
「感じたわけじゃない…!」
そう呟く様子は真実で。その天然さ加減にクワイエットは救われているのかもしれないと。
何も知らないクワイエットの背中にアトランダムは呟く。
「変な奴め…」
火照った体を冷やそうと手がせわしなく動く。襟元を大きくくつろげて涼む様子はひどく婀娜っぽかった。浮き上がった鎖骨がむき出しになる。
「アトランダム」
「今度はなんだ…!」
アトランダムがさすがに構える。クワイエットはフッと微笑んだ。大人の男の笑みで。
思わずそれに魅入られたアトランダムの頬が紅く染まっていく。クワイエットだけが知らずに笑んでいる。まるで子供でも眺めるかのように優しげな笑みで。
「いや、食事が出来たが」
「それを早く言えッ…!」
火照った頬に必死に風を送る。なんでもないことにこうも惑わされるのはどこか可笑しいと。
気付いているのに直せない。あぁ、これが。閃光のようにアトランダムの体を刺し貫く。
「変な奴だな」
「貴様に言われたくはない」
怪訝そうなクワイエットをよそにアトランダムは出された食事を片付ける。次第に口数が減り、終いには黙り込む。その口はもぐもぐと料理を租借していた。
料理の腕は確かなようで、確かに料理は美味かった。
だが。
「…見るな」
「なかなか無理を言うな」
頬杖をついて眺められては味わうどころの話ではない。ごくりと口の中のものを嚥下してクワイエットを睨みつける。鋭い眼光。けれどクワイエットは臆することなく笑った。
「自分が作った料理だ、どうやって食されているか気になって当然だろう」
当たり前のように言われて納得しかける。待て待て待て。
「…貴様」
「なんだ?」
地を這うように低いアトランダムの声にも気づくことなくクワイエットは見つめてくる。意識していないのだ、きっと。そうでなければ考えられないことばかりだった。
「だから、人が食うところを見るなというに!」
「無理を言うな。気になるといっただろう」
ガシャンとテーブルが揺れ、皿が触れ合って音を出す。白い拳がテーブルを殴ったのだと意識する間もなく見て取っていた。
「アトランダム」
「なん…」
そこでアトランダムの言葉が途切れた。唇の奥に続きが飲み込まれていく。
触れ合う唇から伝わる熱にアトランダムの意識は侵食されていく。それは唇に留まらず体の意識までも侵食していった。唇に意識が集中する。見開かれた瞳が淡いグリーンに輝く。プラチナブロンドを長い指先が梳いていく。
「…ッは」
離れた舌先が互いをつなぐ銀糸。ぷつりと切れるそれを追うようにクワイエットが唇を被せてくる。肺が軋む音が聞こえたような気がした。離れた隙をぬって息を吸う。
「…ッ、貴様…!」
ごしごしと唇を拭う様子にクワイエットは笑った。それは子供を見つめるような優しげな目で。短く切られた黒髪が艶やかに光る。
乱されたままなのが悔しくてアトランダムが手を伸ばす。
乱暴に掴んで引き寄せた唇に角度を変えて吸い付く。濡れた舌先が互いの口腔を行き交った。
「満足か」
「…まぁ、な」
笑うクワイエットにアトランダムが問う。
今は淡いブルーに輝く瞳がグリーンに輝くときがあるのを知っている。
稀有なその色彩は異彩を放ちクワイエットの中に記憶されていく。
「それはどういう意味だッ」
不満げなアトランダムの様子にクワイエットはただ笑うだけだ。クックッと喉を震わせて。
「少し静かにしろ」
咎めるような言葉に反論しようとしたアトランダムの言葉は呑み込まれて行く。
触れ合う唇の熱。確かなその感覚にアトランダムが酔う。
「…貴様!」
「少し静かにしろといっただろう」
喉を震わせてこらえきれないように笑うクワイエットの様子にアトランダムは声を上げた。
その声をようやっとで収めると喫茶店の店内には静けさが戻ってきた。
不満げだがそれなりに黙ったアトランダムはまだ名残惜しげにブツブツと何事か呟いている。
その手がまだ片付けていなかった料理に伸びる。黙って料理を咀嚼する動きがアトランダムに戻る。
「いい食べっぷりだな」
クワイエットの言葉にアトランダムが頬を染める。口の中にまだ食べ物が残っている所為かアトランダムは口を利かなかったがその手が何か言いたげにテーブルを叩いていた。
「…ッ、貴様という奴は…!」
ようやく嚥下したアトランダムが口を利く。その様がひどく愛しくてクワイエットは笑った。
「笑うなッ!」
真っ赤な顔をしたアトランダムが叫ぶ。
「無理を言うな」
言ってすぐに口付ける。アトランダムの両手がガッとクワイエットの顔を掴んでようやく引き剥がす。
「…ッは!」
「キスくらいで紅くなるな」
「あのなぁッ!」
クワイエットの言葉に思い切り突っ込みたかったアトランダムの手が宙を彷徨う。
その手がようやく居場所を見つけたのかごとくに、テーブルを殴りつけた。
ガチャンと触れ合う音にクワイエットは目をやる。皿は割れていない。ひびもなし、と心中で呟く。
「皿が傷つく」
「貴様がそうさせて」
言葉はそこで途切れる。飲み込まれる言葉。あまりに多く触れ合って過敏になっている箇所が熱を帯びる。頬に添えられた手が熱い。確かな体温に酔って、しまう。
「…ッは」
「素直だな」
意外そうなクワイエットの言葉を無視してアトランダムは息を吸った。肺が軋むように動くのが判る。急激な酸素に肺が軋む。
「…貴様」
「怒るな」
言い捨てられてアトランダムはぐうの音も出ない。不満げに呟くのが関の山だ。
クワイエットは機嫌よく下げた皿を洗い始める。その様子にアトランダムは息をついた。
まるで自分だけ踊らされているようで
通じているようで通じてない
そんな、関係
《了》