沸き起こるその甘い痛みに
身を任せればどんなにか
48:沸き起こる感情の、その名前
カランコロンと鐘が鳴る。クワイエットが目をやるとプラチナブロンドがちらちらと日の光を反射して輝いた。標準より高い身長。薄氷色をした瞳がクワイエットを見つめていた。
「よくきたな」
「腹が減った」
口元だけで微笑うとアトランダムは子供のようにそう云ってカウンター席へと席を取った。
図書館の行き帰りに寄れる位置にあるこの喫茶店へ通うようになってしばらく経つ。今ではもうメニューを見なくてもアトランダムが何を求めているか判るほどだ。
料理のバリエーションは思いのほか多く、アトランダムの無茶な注文にもクワイエットは今のところ無敗だ。今日も早速軽食を作り始める。その手元をアトランダムが子供のような無心さでじっと見詰めていた。
「今日も図書館か? 見ない気がしたんだが」
「予備校から直接行ったからな。貴様も大概ヒマなやつだな」
天然さゆえの毒舌にクワイエットはクックッと笑った。冷水で引き締まったレタスを解す。
「予備校?」
聞きなれない言葉に疑問を投げかければ不満げなアトランダムの顔が見えた。
「…司法浪人だ」
「あぁ、そうか」
それで図書館通いか、と言う。アトランダムが挑むようにクワイエットを睨んだ。
「悪いか」
「もっと遊んでいると思っていた」
真面目なだけの学生にはない雰囲気がアトランダムを包んでいた。そう言うとアトランダムは微妙な表情を見せた。それは見透かされたような肩透かしを食らったような意外なような。薄氷の色をした瞳がグリーンに輝いた。
「…何故そう思う」
「雰囲気がな。違う」
「昔は…少し色んなこともしたが」
言い辛そうなそれを無理矢理聞き出そうとは思わなかったが、にわかに興味が湧いた。続きを促がすように黙っているとアトランダムはポツリポツリと話し出した。
「少し荒れていてな…まぁ、警察の世話にも多少、なったりしたが」
「なるほど。やんちゃだったわけだ」
「貴様…!」
ダン、とテーブルを殴って立ち上がる目の前へ出来た料理を置いた。
「出来たぞ」
アトランダムは渋々座って食事を始める。その仕草はどこか洗練されていて意外だった。
「ずいぶん綺麗に食事をするものだな」
クワイエットの言葉にアトランダムは目を瞬く。たまに行儀悪くスプーンやフォークを咥えているのを見るだけだ。それも恐らく判っていてやっているのだろうと思わせる。周りが自分をどう見ているか、よく知っている仕草だった。
「口うるさい弟がいてな」
箸の上げ下ろしから衣服に至るまで生活のすべてに口を挟んでくる。ありがたいことなのだと思うからこそ言うことを聞いていたが一人暮らしが長くなってからはそれも忘れがちだ。
「保父をしている」
「意外だな」
コトリと目の前にコーヒーが置かれる。アトランダムはそれを当然のように受け取って飲んだ。綺麗になった皿をクワイエットが黙って下げる。
「何がだ」
「弟がいたということと保父をしているということが、だな」
「兄弟だがあまり似ていない」
弟は綺麗な金髪碧眼だ、とアトランダムは自身の髪を指先でいじりながらそう嘯いた。淡い水色のプラチナブロンド。稀有なその色は他者を寄せ付けない綺麗さで。鋭い瞳は髪とよく似た薄氷色で角度によっては淡い緑色にもなる。
「お前も十分綺麗だと思うぞ」
「安っぽい世辞だな」
アトランダムが喉を震わせて笑った。その様は硬質に美しく。花が綻ぶというよりは鉱石のような輝きを持った、笑みで。その下顎を捕らえる。意識させる前に唇を乗せた。男の体の中で数えるほどしかない柔らかな箇所。白い皮膚の所為か唇だけ発熱したように紅く。
触れ合う箇所から熱が伝わってくる。次第に深くなる口付けにアトランダムの方が音を上げた。離れた瞬間に大きく息を吸う。肺が軋んだような気がした。体の奥底に眠る熱を揺り起こされた気分だった。平静では、いられない。
「貴様…! 何を考えて」
「お前のことだ、アトランダム」
カァッとアトランダムの頬に赤味が差す。色事に不慣れとは思えない経歴だったが違ったのかとクワイエットは心中で一人ごちた。大きな手の平がその顔の半分を覆う。露な皮膚は紅く染まっていた。
「男に告白されたのは初めてだ」
「手馴れていると思ったんだが」
「貴様とは話が別だ…!」
心外そうにクワイエットが息をつく。
「それはどういう意味だ」
アトランダムは口を利かない。鋭い眼光もどこへやら、そっぽを向いている瞳が潤んでいた。その頬に手を添えて再度口付ける。カウンターが今は恨めしい。角度を変えて潜り込んでくる舌が絡み合う。流し込まれる唾液を嚥下するしかアトランダムにすべはなかった。
「――ッ、貴様…!」
「どうせ黙っている口だ、構わないだろう」
しれっと言ってのけるクワイエットにアトランダムが撃沈した。湯気でも噴きそうなほど赤面している。クワイエットは諦めて皿を洗い出した。カチャカチャと硬い音と水の流れる柔らかな音とがしばらく店の中に満ちた。
「クワイエット」
声は意外な方向からかけられた。カウンター越しだった体がすぐ横にいた。
「アトラン」
声はそこで途切れた。合わされた唇。胸倉を掴むようにして噛み付くような口付けを。
歯が当たってがちりと音を立てた。舌先が悪戯っぽく歯列をなぞり、離れていく。
「アトランダム…」
「これが答えだ」
そう云って背を向ける腕を取る。目前まで迫って見えた皮膚は紅く、瞳が潤んでいた。
腕を引き腰を抱き寄せる。思わず顔を背けるのを許さず唇を重ねた。指先がプラチナブロンドを優しく梳き、シャツの裾へと伸びる。裾をたくし上げて胸を這う手にアトランダムはたまらず声を上げた。
「待て待て待てッ!」
「何を」
トサ、とカウンターの中の床に体を横たえてクワイエットはしれっと問い返した。アトランダムがバネ仕掛けのように跳ね起きる。その顔は先刻とかわらず、紅い。
「貴様何をする気だッ」
「何って」
クワイエットはしれっと答えた。
「セックスだが」
「言うなこの馬鹿ッ!」
バチンと繰り出した拳が受け止められる音がした。
「喧嘩っ早いのはどうにかした方がいいぞ」
「貴様が言うなぁ!」
会話している間にも迫ってくるクワイエットを押しのけながらアトランダムが必死に叫ぶ。
長い脚の間に体を進められてアトランダムは泣きたくなった。迫ってくるクワイエットを必死に押しのける。拮抗した状態を破ったのは甲高い女の声だった。
「何してんの?」
「クイーン」
「盛るんなら外で盛ってよ。一応店開いているんだしさァ」
ちょっと待て問題はそこなのか。
アトランダムは思いきりそう訊きたかった。だがクイーンの一言でクワイエットが体を引いた。そのことだけは感謝した。
クワイエットの下から体を引きずり出してアトランダムは思い切りクワイエットと距離をとった。カウンターを絶対超えないと心に誓った。同時に少し軽率だったかと思う。
「アトランダム」
「な、なんだ!」
判っていても肩が跳ねる。手荷物を手早くまとめて店を出ようとする様子にクワイエットが苦笑した。クイーンが巧みにレジスターをいじってチンと音をさせた。クワイエットの意味ありげな視線にさらされながら会計を済ませ店を後にする。その背に声がかぶさった。
「また、今度」
その顔が朱に染まった。
黙って店を後にする後姿をクワイエットは面白そうに眺めている。クイーンがふぅんと息をつく。
「ふられた?」
「さぁな」
興味津々なクイーンの視線をよそにクワイエットは中断していた片付けを再開する。
体の奥底から湧き上がってくるその甘い痛みに身を任せてしまえば
どんなにか楽だろう
けれど経験が警鐘を鳴らす
白い肌
シャツの襟から覗いた浮き上がった鎖骨
シャツの裾から覗いた腹部
腰骨の形をまた指先が覚えている
首から頚骨は背骨へと真っ直ぐ続いている
一時抱きしめた体をこんなにも覚えている
沸き起こるそれは
一体、何?
《了》