油断大敵?
46:うっ、後ろ
姉と末弟を送り出してからすぐ下の弟の部屋へ向かう。今日は授業はないが約束があると聞いていたので部屋に入り込んだ。案の定すぐ下の弟はぐっすりと眠りについていた。
「パルス! おい!」
布団の塊に声をかける。ぐらぐらと揺すると眠そうな顔が生えた。兎のように紅い瞳と艶やかな黒髪。長い髪は水溜りのようにベッドの上に広がり流れ落ちていた。
「オラクルがうちに来るって電話があったぜ。起きろ、ほれ」
「…オラクル、から」
眠そうな声が言葉を繰り返し、意味を租借すように呟いた。目がカッと見開かれしなやかな体がガバリと跳ね起きる。長い髪が開かれたカーテンから差す陽の光に照らされて輝きを増す。
「オラクルから?!」
「おう。オラクルから」
自身とよく似た容貌を持つ従兄弟を思い出す。明るめの茶髪に同じ色の瞳。高い背。けれど身長のわりに威圧的な雰囲気などなく、何もかもがどこまでも穏やかという言葉の中にある。
「判った」
跳ね起きた体がタオルを引っ張り出して洗面台へ向かう。その背を見送ってからオラトリオは部屋を出た。パタンと扉を閉じる音が響く。
そして朝食を作るために台所へと向かう。
顔を洗って服を着替えたパルスが食卓へつくころには作りたての朝食が出来上がって待っていた。黙って朝食をかき込むすぐ下の弟を見るとはなしに眺める。
通った鼻梁に整った顔立ち。紅い瞳が煌めき、艶やかな黒髪が首の辺りで一つに結われて背中に流れている。長い髪。己より小さな背。だがそれは標準からいけばまだ高い方だろう。従兄弟とオラトリオは標準より群を抜いて高い背だ。オラクルから見ればまだ見下ろしてしまうのだろう弟はやはり可愛いのだろうかと思う。
「しっかしお前ら、よく付き合ってんな」
煙草を一本取り出すのをパルスは片眉だけ上げて咎めたがそれは見ないふりをした。火を点けて吸うと整った顔立ちが責めるような目で己を見つめていた。
「なんだよ?」
「家で煙草を吸うな。外で吸え」
「かたいこというなって」
へらっと笑ってかわすとパルスは仕方ないといいたげに肩をすくめた。
「付き合ってるって事は、お前、オッケー出したんだろ?」
「…そうだが」
朝食をかき込む口元が歪んでいく。オラトリオがどう思っているかは知らないがパルスはこの兄が苦手だ。喧嘩を挑んでは負かされる苦い経験があった。
「オラクルでよくオッケー出したな。一体どこにそんな惚れたわけ?」
「…オラトリオ」
「なぁなんでだ? オラクルのどこがそんなに良かったんだ?」
オラトリオがヴァイオレットの瞳を瞬かせて訊く。パルスの目線が遠くを泳いだ。
「お兄ちゃんに聞かせてみ?」
「…貴様には関係ない」
「そんなこというかコラ」
サッと朝食の皿をずらされてパルスの持ったフォークがカッとテーブルを打った。恨めしげなパルスの視線をものともせずオラトリオは再度訊いた。
「なんでだ?」
にまっと笑うオラトリオとは逆にパルスの顔が歪んでいく。その口元が何か言いたげだ。
「なぁ、なんでオラクルなんかと――」
「なんかで悪かったね、オラトリオ」
オラトリオはザーッと血の気が引いていくのを感じた。背後からかけられた声に背筋が凍った。恐る恐る振り返ると果たせるかな、従兄弟のオラクルの姿がそこにあった。
「オラクル?!」
「玄関の鍵、開いていたよ、オラトリオ」
にっこりと笑う顔には邪気など微塵も感じさせずただ怒りだけがそこにあった。
「黙って入ってくるなよ!」
「だってドア、開いてたもん」
ツーンとそっぽを向くオラクルが怖い。何事にも執着を見せなかった従兄弟が何故このすぐ下の弟にだけは執着を見せるのかが知りたくて訊いていたのだが。オラトリオの事情など知らぬげにオラクルは睨みつけるようにオラトリオを見た。
「オラトリオなんか置いて出かけよう、パルス」
にっこり笑うこの従兄弟には誰も逆らえない。パルスは黙って口の中の朝食を飲み下した。
ごくりと飲み込む音が妙にリアルにオラトリオの耳に響いた。
「オラクル、オメーなぁ…」
「オラトリオなんか知らない。行こう、パルス」
完全に怒っている。温厚なだけに怒らせると後が怖い。オラトリオは無神経に質問を重ねた己と開いていた鍵を呪った。オラクルの手が誘うようにパルスの手を取る。
「行こう、パルス」
パルスは黙ってそれに従う。オラクルはそれだけで満足げだ。勝ち誇ったようにオラトリオを見つめ踵を返す。パルスはそれに従順に従う。
「じゃあね、オラトリオ」
オラトリオは黙ってそれを見送るしか手はなかった。
「パルスは借りていくから」
「オラクル!」
カァッと頬を染めたパルスが叫んでもオラクルは動じない。意志の強い目がパルスを試すように見つめた。薄い茶褐色の瞳。この目に見つめられると何も言えなくなってしまう。なんだか自分のほうが悪い、みたいで。
「オラトリオなんかよりいいよ」
かなり根に持った言い方にオラトリオは外聞も何もかも振り捨てて悶絶したくなった。
温厚な普段を知っているだけに怒っている状態がかなり悪いと、推測できるだけに恐ろしかった。この失策をどう取り戻すかが難題だった。
「オラクル」
「オラトリオの言うことなんか聞かないよ」
フンッと不機嫌そうにそっぽを向く。その手はしっかりとパルスの手を握っていた。
「行こうよ、パルス」
ズルズルとそのままパルスを連れ出す。オラトリオはその背に声をかけるだけで精一杯だった。
「日付が変わる前に返してくれや」
「オラトリオなんか知らない!」
キャンキャンと子犬が鳴くようにオラクルが返事をする。
パルスが何か言葉にならない声で叫んだがそれはオラトリオまで届かなかった。
「はぁー…」
オラクルが出て行った後の家は嵐が去ったかのように静まり返っていた。
クシャリと前髪をかき上げる。男前だと誰かに評された顔がすっかり困りきっていた。
ヴァイオレットの瞳が去っていった嵐の名残でも見つめているかのように玄関を眺める。
「鍵、ね…」
戸締りを怠った報いが既に来ていた。しかも泥棒よりずっと性質の悪い。
「オラクル!」
哀れ被害をこうむったすぐ下の弟の悲鳴をオラトリオは聞かなかったふりをした。
敵に回すにはあまりに性質の良くない相手だった。オラトリオはコッソリと頭を抱えた。
「あっちゃー…」
手に持っていた煙草がジジッと燃える音がした。吸っていないのに確かに減っている。
オラトリオはすぐ下の弟の分も夕食を作るかどうか思案し始めていた。
壁に耳あり障子に目あり
油断大敵後ろに注意?
《了》