いつもいつでも
貴方のことが
45:昼も夜も
図書館からの帰り道、初めてその店に気付いた。道路から一歩奥まったような場所にある。案内の看板も店の置き看板もない。駐車場はせいぜいが三台程度。
客にとっては不親切な店だ。それが逆に目を引いた。
扉を開けるとカランコロンとありきたりな鐘の音がした。
「いらっしゃい」
カウンターに座っていた女性が声をかけてきた。なかなかグラマラスだ。紅いルージュが目を引く。読んでいた雑誌を置いて立ち上がった。
「どこでも好きなトコ座って」
案内もしない。本当に不親切な店だなと心中で思った。案の定客は入ってきたアトランダム一人だった。適当に窓際に席を取る。図書館帰りの重い荷物を置くと肩がすっきりした。
「ご注文はァ?」
艶やかな黒髪を頭の上で一つにまとめている。襟ぐりの大きく開いた服は思わずどきりとするものだった。
適当に注文を済ませると彼女は奥へ引っ込んだ。一人きりにされてアトランダムは時間つぶしにと参考書を開く。トツトツと足音軽く先刻の女性が戻ってきた。
「ねぇ、あんたさぁ、普段何やってんの?」
ぶしつけな質問に眉が寄る。そもそも初対面の人間に浴びせる質問ではない。
「…浪人」
「へぇ」
彼女はカウンター席を引っ張ってきてアトランダムの斜め前へと席をとった。
「ねぇ名前は?」
「アトランダム」
面倒事が鬱陶しくて参考書を熱心に眺めているふりをする。けれどそんな態度もどこ吹く風、彼女はぺらぺらとアトランダムに話しかけてきた。
「ねぇ、男と寝たことある?」
げふっとアトランダムは咳き込んだ。突拍子もない質問にぐうの音もでない。何より答えようがない上に何故この女にそんなことを言わなければならないのか。
「関係ないだろう」
出来る限り出した不機嫌そうな声にようやく彼女は目を瞬いた。
「ねぇ、あんの?」
それでも訊いてくるのは根性の賜物か。アトランダムはその質問を無視してペンを取った。
サラサラとノートに文字を書き付ける音だけが響いた。女性は辛抱強くアトランダムの答えを待っている。女性の目が手元にそそがれているかと思うと手が震えるような気がした。何よりこんな見世物になる気など毛頭なかった。
「ない」
「へぇえ」
くふんと意味ありげに彼女が笑った。それは女性というより悪戯っ子のような顔で。
「何故そんなことを訊く」
ペンを捨てて逆にアトランダムはそう問い返した。この店で図書館の続きをするのは絶望的だと思ったからだ。女性はふふふとわざとらしく口元を隠して笑っている。
「だってさ――」
きゃらきゃらと笑いながらの言葉に低い男の声がかぶさった。
「クイーン」
この女性の名前らしい。長い髪をなびかせて彼女が振り向いた。
「クワイエット」
「お前が取りに来ないから――」
男の手にはコーヒーとサンドイッチの乗った皿が乗っている。注文したものを取りに来ないので厨房のコック自らでてきたというわけらしい。短く切られた黒髪。威圧的に思えるほどの長身。もっとも身長の面ではアトランダムこそ人のことは言えないのだが。
「クワイエット、聞いてよ」
クイーンは椅子を戻しながらきゃらきゃらと笑いながら言った。
「ヴァージンだってさ! 良かったじゃない」
「クイーン!」
「あっははは!」
開いた片手が彼女を捕らえようとするのをするりと抜けて彼女は奥へ引っ込んだ。
クワイエットと呼ばれた男がふぅとため息をつく。
「すまない。何か不愉快な思いはしなかったか?」
こちらはまだ常識があるのか詫びるようにそう問うた。
「いや」
目の前に差し出された餌にアトランダムは食いついた。参考書やノートを脇へ押しやってサンドイッチにかぶりつく。予想以上に腹が減っていたようでサンドイッチはするすると胃の腑へ落ちていく。合間に飲んだコーヒーはひどく美味かった。この味で客がいないのはやはり案内板もない不親切さの所為だろうとアトランダムは無意味に見当をつけた。
気付けばクワイエットが微笑みながらアトランダムを見ていた。口の中のものをゴクリと飲み下してからアトランダムは口を利いた。
「なんだ?」
「そこまで美味そうに食われるというのは作った甲斐があるというものだな」
思わずアトランダムの頬が紅くなる。そこまで自分はがっついていたのかと思うと気恥ずかしくなる。肌が白い所為か、その変化はすぐクワイエットの知るところとなる。目元までうっすら紅く染めて目線がそっぽを向いている。その初々しさにクワイエットは笑みを深めた。その口元へ指を伸ばす。拭う様な仕草にアトランダムが目を向けた。
薄氷色の目。体を動かした角度の加減でそれは淡いグリーンにも変わった。
「パンくずだ」
そのまま口付ける。
触れるだけの何気ないキス。舌先が唇の脇を拭って離れていった。
「きッ、貴様何を…!」
「なるほど、クイーンの見立てもなかなか正確だな」
カァッと頬を染めて口元を拭う様子にクワイエットはくつくつと喉を震わせて笑った。
「見立て?」
クイーンというのは先刻の女性だろう。見立てとはなんだと目線で問う。
「男の経験はないタイプだろうといっていた」
「男の経験?」
「抱かれたこととかだな」
答えづらいだろう質問にもクワイエットはさらりと答えた。悪びれないその様子には責めることも出来ない。ただアトランダムは撃沈するしかなかった。
「貴様ら…兄妹か」
「そうだ。よく判ったな」
これだけ揃ってぶしつけな質問をぶつけられればアホでも判る。アトランダムは脱力してテーブルに突っ伏した。
「何故そんなに私に構う」
クワイエットの手がくしゃりとアトランダムのプラチナブロンドの髪を乱した。
「俺はどうやらお前に惚れたようでな」
なるほどそれでクイーンの先刻の台詞にたどり着くわけかと思い至ってはっとする。
ちょっと待て。
「私とは初対面ではないのか」
「ここから」
クワイエットが窓を指差す。アトランダムがつられるように覗き込んだ。
「図書館へと向かう輩がよく見える」
日の光をちらちらと反射するプラチナブロンドはすぐ目に付いた。風になびいたような髪型。真面目さだけではない、どこか遊びなれた雰囲気の不思議な男。向かうのは図書館だろうと手荷物で見当がついた。凛とした眼差しが。ひどく美しく。
一目ぼれ、だった
「馬鹿な」
たったそれだけで。アトランダムはふぅとため息をついた。クワイエットはそれを聞こえないふりをして言葉を紡ぐ。
「三日四日前にはこなかったな。一体どうした」
「風邪で寝込んだ…貴様、本当によく見ているな…」
「店はこのとおりなのでな」
閑古鳥の鳴く店だ。それは観察する暇も作れるというものだ。
「案内板でも出せ」
「そこまで回らなくてな」
人事のように言ってクワイエットは笑った。アトランダムはもれなくテーブルに崩れ落ちた。改善する気は毛頭ないようだ。アトランダムの目が薄氷色に輝く。
「綺麗な目だな」
「そうか?」
アトランダムがパチパチと瞬く。子供のようなその仕草にクワイエットの笑みが深まる。
「さっきはグリーンに見えた」
「角度によって変わるみたいなんだ。よく言われる」
復活したアトランダムはサンドイッチの残りを綺麗に片付ける。食事もコーヒーも純粋に美味かった。
「名前はなんだ?」
その問いは本日二度目だ。だがアトランダムは厭わず素直に答えた。
「アトランダム」
「俺はクワイエットだ」
伸ばされた指先がプラチナブロンドを優しく梳いた。
それは母親が幼子にするように優しく。甘く。すべてを許したような甘さに酔いしれる。
「クワイエット、か」
クワイエットの名前を舌先で転がす。そうするだけで全身が痺れたような気がした。
あぁ、こんなにも。眩しいほどの鮮烈さでクワイエットの名はアトランダムの身を灼いた。
「お前にこんなに早く呼んでもらえるとは思っていなかった」
口付ける。甘く甘く優しく優しく。お菓子のような甘さを持った口付けだった。
今度は舌先が悪戯っぽく歯列をなぞって離れていった。
「淹れたコーヒーの味がするな」
クワイエットがくつくつと喉を震わせて笑う。それはひどく珍しいことなのだとアトランダムは後になって知った。
「当たり前だろう」
言ってアトランダムも笑い出した。腹の底から湧き出てくる笑いを堪えきれずに吐き出す。
「私もお前が気になりだした」
クワイエットは一瞬驚いた顔をしたがすぐに薄く笑った。
「それは光栄だ」
男二人の転がるような笑い声が店の中に響いた。
昼も夜も貴方のことが
気になって仕方がない
ねぇどうか
今日は声をかけてもらえますように
今日は声をかけられますように
《了》