それはそこに確かにあるのに
12:硝子越し
ぽてぽてぽて、と小さな足音が二つ、響いた。
「ただいまー」
「ただいまッ」
間延びした声と幼いキンキン声。迎えるのは伊庵の優しげな声。
「お帰り、二人とも」
少し人相の悪い少年の服の裾をしっかりと握り締めているのは、白髪を後ろで一つにくくり、紅い目隠しをしたさらに幼い少年。少年が歩く後を飽きもせずついて回る。少年の方もそんな弟を邪険に扱うことなく好きにさせている。
「遊庵、俺便所行きたいから離せ」
遊庵は不安げに俯きながら握り締めていた服の裾を離す。
庵里は気遣いながらもすばやく便所へ駆け込む。
「オーどうしたどうした、景気ワリィ面してよぉ!」
ただ突き抜けるように明るい声に振り向いた遊庵が声に向かって歩き出した瞬間、ゴッと硬質で鈍い音が響いた。
思わず部屋中に満ちる沈黙を、寿里庵の爆笑がぶち壊した。
「遊庵、かっこわるー! 何、柱に激突してんだよ!」
「うるさい!」
幼児特有のキンキン声が涙声になりながらも爆笑する父に向かって言い返す。
「寿里庵、そんな笑うんじゃないよ」
遊庵を気遣って言う母の言葉を父は笑い飛ばす。
「遊庵の肩ばっかり持つなよ、事実じゃねぇか」
「じゃ笑うな!」
真っ赤になって怒る遊庵の頭をぐりぐりと寿里庵がかき混ぜる。
「おかしいときは人間、笑うモンなんだよ!」
「バカ野郎!」
「お? 親父に向かってそんな口利いていいのかぁ? こら」
寿里庵の指先が遊庵の頬をギュウッとつねった。
「ひたひ、ひたひ!」
もがく二番目の息子を寿里庵は楽しげに眺めている。そこへ便所から戻った庵里が加わる。
「親父、止めろって」
「しょーがーねーな」
ぱっと寿里庵が手を離し、遊庵はつねられた頬をさすっている。
「遊庵」
「庵里アニキ!」
声の方へ飛びつこうとして再度柱に激突する。ゴヅッと響いた鈍い音に母と兄は硬直した。
「〜〜…ッ!」
相当痛かったのだろう、目隠しがジンわりと濡れ出していた。
「遊庵、ここだぜ」
泣き出しそうになっている遊庵の手を取り、服の裾を握らせる。
「庵里アニキ…」
小さく幼い手がギュウッと裾を握り締める。
それを見ていた母がふぅっと息をついた。
「…五体満足に生んであげられたら良かったのにねぇ」
「気にすることじゃねぇよ、それがアイツの運命だ」
心配げに兄弟を見守る伊庵の肩を抱き寄せて寿里庵が囁く。
「かーちゃん?」
遊庵の幼い声に伊庵は滲んだ涙を拭った。
「なんだい、遊庵」
「…なんでもない、ただ」
遊庵が言葉を濁す。その先を伊庵が無言で促がした。
「かーちゃんが泣いてるような気がして」
遊庵の言葉に皆が目を見張った。盲目のこの子が。
伊庵の様子に敏感に気付いたというのか。
「ありがとう遊庵、大丈夫だよ」
涙を浮かべて伊庵は遊庵を抱きしめた。
それでもやはり目の見えない遊庵には何がなにやら判らなかったけれども。
それでも伊庵は満足だった。
――優しい子
「かーちゃん、俺、強くなるから」
抱きしめられながら遊庵がつたなく言葉を紡いだ。
絵空事のようなはかない夢だったが遊庵にとっては現実で。
「誰にも負けないくらい、俺…強くなるよ」
「なれよ、遊庵」
庵里がにやりと笑って弟を小突いた。
「うん!」
「ま、その前に柱にぶつかんねーよーにするんだな!」
「もうぶつかんねーよ!」
父の言葉に遊庵が叫び返す。
その幼い手はまだ兄の服の裾を握り締めていたけれども。
その手がいつか、誰かを守り育てるために動くようにと。
祈るような気持ちで伊庵は遊庵を抱きしめた。
いつかこの子にも、大切な者が出来ますようにと
その手で守るだけの力を、お与えくださいと
母は祈るように。兄は願うように。
父親にいなされる遊庵を見つめていた。
確かにそこにあるもの
けれど触れることはかなわず
それはまるでそう、硝子越しのような
だからこそ祈る。願う。
――この子が
いつか幸せになれますようにと
《了》