貴方に嘘は吐きたくないから
08:正直と嘘吐き
ばきぃっと音を立てて、思い切り、殴られた。
「…どうしたんだよ、その顔」
無遠慮に触れてくる遊庵の指を好きなようにさせておいて螢惑の頬が膨れた。
「辰伶に殴られた」
頬が赤黒く腫れあがり、明らかに殴られたと判る。
思わず遊庵の口からため息が漏れる。この二人は仲が良いのか悪いのか判らない。
「来いよ、手当てしてやっから」
遊庵に言われるままに螢惑は高下駄の音を響かせついていく。
「それにしても何でそんなことになったんだよ」
つまらなさそうに遊庵の目隠しの裾をいじっていた螢惑が目を上げた。
「あのね」
「好きだよ」
いつもの言葉。いつもどおり、辰伶はその頬を赤らめた。
「貴様はそう何度も何度も!」
真っ赤な辰伶の拒絶の言葉は照れ隠しだと知っているから螢惑は気にも留めなかったのだ。
ぎゅっと抱きしめて唇を重ねる。そこまでは、いつもどおりだったのだ。
「す、好きなどと…俺は貴様が嫌いだ!」
キライだなんていうから。ムッとした螢惑は口を滑らせてしまったのだ。
「あーでも…頭コチコチでウザイとこはキライ」
その刹那、辰伶の腕が大きくしなったのが見えた。
「お前、馬鹿じゃねぇの」
薬箱から湿布を探しながら遊庵が言った。螢惑はムッと膨れたままだ。
「だって辰伶が嫌いなんていうから。俺はこんなに好きなのに」
「だったら嘘でも好きだっつっとけ、わざわざ嫌われるような原因を作ってんじゃねぇよ」
お、あった、と遊庵が湿布を見つけ出す。ホラよ、と放ると螢惑がパシッと受け取る。
「嘘吐いたらいけないって言ったのゆんゆんだよ。それに頭コチコチでウザイとこはホントに嫌いだし」
「だから馬鹿だっつんだよ」
湿布を貼る場所が判らず四苦八苦しているのを悟ったのか遊庵が鏡を差し出す。素直にそれを受け取り、鏡の中の自分と対峙する。赤黒く腫れた頬。それはまるで辰伶の本気さのように思えた。
「駆け引きッつうもんがあるだろ? 馬鹿正直に何でも言やあいいってもんじゃねぇだろ」
「駆け引き…」
螢惑がぽわんと呆ける。その様に遊庵は思わず脱力した。強くする以外にも教え込んでおいた方がよさそうなことが山積みで見えてきた。
「恋の駆け引きくらい知っとけ! 真正面からぶつかるだけが手じゃねぇだろ?」
「だってややこしいの面倒だし。素直が一番」
「その結果がこれだけどな」
遊庵の指先が腫れた頬をビシッと弾いた。
「痛い」
ムスッと膨れた螢惑の手が遊庵の目隠しの裾をぐんと引っ張る。ごきっと嫌な音がして遊庵が悶絶した。
「テメェな!」
一瞬変な方向へ曲がった首をさすりながら遊庵が気付いた。その口元がにやりとたちの悪い笑みを浮かべる。
「結局、お前はあいつのこと好きなのか嫌いなのか?」
「そんなの決まってるじゃん」
螢惑は胸を張って言い張った。
「大好きだよ」
「――だ、そうだぜ、大先生」
遊庵の手が部屋の障子をスパンと開ける。
「辰伶…!」
その手には小さな薬箱。居心地悪げにたたずむ辰伶の姿がそこにあった。
「お、俺は――その…」
薬箱を持つ手が震えていた。金色の目がきょときょとと辺りを見回す。
「な、殴ってすまなかったと…そ、それだけだ!」
薬箱を放り出してかけ去ろうとする腕を遊庵が捕らえた。
「逃がさねーよ」
「な…!」
「決着つけろや」
遊庵の腕が掴んだ辰伶の体を部屋の中へ押し込む。思わず倒れこむのを螢惑がとっさに受け止めた。
「ま、ガンバレよ」
その後ろで遊庵が舌を出して障子を閉めた。
遊庵が立ち去る足音が聞こえる。それほど静かだった。
「辰伶、聞いて…」
「お、俺は…ッ!」
螢惑の上に覆いかぶさったままだと気付いた辰伶が跳ね起きる。小さな薬箱は無残なかたちで中身をさらけ出していた。
「手当てされているなら用はない…ッ! 俺は後始末をつけにきただけ――」
「ねぇ、本当にそれだけなの?」
真っ赤な顔で言う辰伶の頬に螢惑の指先が触れる。火照った頬にヒヤリとした感触。
「聞いてたんでしょ? 何か言うことないの」
「い、言うことだと…!」
真っ赤になって恐慌を来たしている辰伶は驚くほどに素直で。その手の内が容易に知れた。
本当は逆だということも
本当は遊庵との関係に嫉妬していたことも
全て、見通せた。
「ゆんゆんとはなんでもないよ? 安心した?」
「馬鹿者ッ――」
罵りながらその裏で安堵していることは容易に知れた。
素直な辰伶。なんて愛しい。
「ねぇ、大好きだよ」
覆いかぶさっている辰伶の体を抱きしめる。跳ね起きた体はまた、元の状態に戻ってしまった。体を重ねていると心音がダブって聞こえた。
とくん、とくん、とくん
「大好きだよ」
とくん、とくん、とくん
「お前は、本当に…」
手に負えない?
嘘ばかり言うって?
嘘なんかじゃないよ
辰伶が体の力を抜いて螢惑のされるがままになる。抱きしめられる体。重なる心音。
それはこれ以上ないほどの、安心感。
「俺は貴様など嫌いだ」
「意地悪。俺は好きだよ」
螢惑の口角がつり上がって笑みを浮かべた。
「きっと、好きになるよ」
辰伶はきっと、俺のことを好きになるよ?
絶対、そうしてみせるから
「そう簡単にいくか」
そう言う辰伶の顔にも笑みが浮かんだ。
抱き合いながらどちらともなく笑い声が上がった。
ただ抱き合いながら笑い合う。
ただ、幸せ
こんなときが永久に続けばよいと
ただ、幸せ
《了》