その声で、
41:もう一度聞かせて
歩く足元が心なしかおぼつかないような気がした。それほどにショックだったのかと自身を省みて驚く。そこまで弱く、ないはずだった。
たどり着いた先の扉をノックもせず開く。部屋の主は振り返るだけで、無作法を咎めたりはしなかった。その優しさが。
「どうした、一之瀬」
響く低音に一之瀬の剥きだしの腕がビクリと震える。俯いたままの顔は上がらない。
部屋の主が立ち上がり一之瀬をソファへ誘った。誘われるままに一之瀬はソファへ腰を落ち着ける。
「黙っていては判らない。一体、どうした」
「…狩矢様は」
一之瀬の唇がわずかに動いて声を紡ぐ。
「狩矢様は今夜も要らないとおっしゃった」
伽の事だろうと見当を付けていた部屋の主はふぅっと息をついた。
そういえばここ最近、狩矢が夜伽を頼んでいるのを見かけない。
「私は…私は、飽きられてしまったのだろうか」
くだらないと切り捨てることは簡単だったが、古賀はそうしなかった。
「そういう気分なのだろう…あれも気まぐれだ。そう気にするな」
古賀の大きな手が俯いた一之瀬の髪をくしゃくしゃと慰めるようにかき混ぜる。
「私は、狩矢様のお役に立てているのだろうか」
頼りなげな言葉に思わず古賀は一之瀬を抱きしめた。たくましい腕の中で一之瀬がすがり付いてくる。温かな熱と抱きしめられているという安心感に一之瀬の体から緊張がほどけていく。
腕の中、一之瀬が古賀を見上げた。
「古賀、私は、本当に狩矢様のお役に立てているのだろうか」
鳶色の目が潤んだように煌めいていた。古賀は抱きしめる腕に少し、力を入れた。
「それでもお前は必要だ、気にするな」
「真樹」
心地好く響いた低音に一之瀬は目を見開いたがすぐに嬉しげに目を眇めた。
抱きしめてくる体にその身を預ける。
「古賀、もう一度、呼んでくれ」
この安堵感。安心感。心地好く響く低音に一之瀬は身を任せる。
クスリと笑った気配がした。
「真樹」
「真樹」
呼ばれるたびに杞憂が消える気がした。心が軽くなっていく。
温かな腕。確かな腕は狩矢より若干太く、存在感を示している。
「気にするな、真樹」
「ありがとう…古賀」
部屋に入った頃に抱えていた闇はすっかり払拭されていた。
体に染み入る低音が、心地好かった。体をゆったりと任せられる、相手だった。
ただ抱きしめてくるだけで古賀は何もしない。胸を這う指先もなければ、器官を舐る舌先もない。それでも、狩矢に抱かれているときとはまた別の、心地好さがあった。
「古賀」
「私は、狩矢様が好きだ…」
古賀は動じない。黙って言葉の続きを待っている。
「だけど、古賀の事も好きだ」
この心地好さを手放したくなくて一之瀬はたくましい体に腕を回した。
温かな体。古賀の鼓動が聞こえてくるような気がして目を閉じる。
何もかも失くしてさまよっていて、出会った狩矢様
共にいたのは――古賀だった
黙ってそばにいてくれる。抱きしめてくれる。
「私は、ずるいな…」
「気にするな、と言っている」
律儀に答えてくる古賀に一之瀬がクスリと笑った。
「だから、ずるいんだ」
一之瀬は笑いながら頬をこすりつけた。古賀の体温が、確かに伝わってきて、何故だか泣きたくなってきた。
あの低音をもう一度
「名前を呼んでくれ、古賀」
古賀が不思議そうに一之瀬を見た。その目線に一之瀬が微笑んだ。
「君に名前を呼ばれると、心地好い」
古賀の表情がフッと緩む。一之瀬の額、髪を掻き分けて現れたそこへ古賀が口付けた。
「狩矢に、勝ったのか」
「狩矢様は別格だ」
慌てたように言う様子がおかしくて、愛しくて。
「真樹」
古賀は頼まれるがままにその名を呼ぶ。
その声で、もう一度。
もう一度聞かせて
《了》