貴方に殺されればきっと
37:貴方に殺されたい
「はッ!」
気合の声と共に一歩を踏み出す。振り下ろされる木刀が空を切り床を踏むダァンという音が道場にこだました。連続して切り返すように木刀を振ると汗が玉となって散った。
流れるようなその動きを止めると、肩が呼吸に上下した。予想以上の消耗。
まだまだ修行が足りないと自嘲すると袖で汗を拭った。
いつもは人でごった返す道場も、今はなぜか人っ子一人いない。
それぞれ仕事や任務についているのだろうと思うと、新しい隊長に従えないのは己一人なのかと思えた。先日の決闘は正式なもので横槍も不満も入れようがなかった。
ただ、不服だった。
木刀を握り締める己の手を見つめる。先代の隊長にはよく此処で稽古を付けてもらったものだった。優しく一本気で理想を掲げる、人だった。
思わず隊長を思い出して鼻の奥がつんとなる。ジワリと滲む涙を汗と一緒に拭い去った。
「隊長…」
今ではもう先代となってしまった隊長はもういない。そのことが辛かった。
いつもは気にならないこまごまとしたことが、隊長を思い出させて泣きたくなった。
「珍しいじゃねぇか」
響き渡った声に一之瀬の意識が覚醒する。目をやれば珍しく副官を連れていない更木の姿がそこにあった。
「更木…」
「熱心じゃねぇか。一人で稽古か? 俺が相手してやってもいいぜ」
ちょうどヒマなんだよと更木の手が置いてあった木刀を取った。
思わず正眼に構えた一之瀬に更木はにやりと笑った。
「こいよ」
ダン、と音を響かせて床を蹴る。
「やぁぁぁッ!」
上段から振り下ろす剣を更木が片手で受け止める。木刀同士が当たってかぁんと乾いた音を響かせた。上段、中段と切りかかる剣を更木はことごとく止める。
憎い男だ。隊長を殺して、新しく隊長となった男だ。一之瀬の剣にはいつの間にか殺気がまとわりついていた。それを感じ取った更木はにたりと笑った。
「上等だ!」
振り下ろされた剣をがぁんとはじき返すと一之瀬の体のバランスが一瞬、崩れた。
その隙に襟を掴んでぶん投げる。磨かれた道場の床に一之瀬の体が叩きつけられた。
「か…ッは!」
背中から落ちた一之瀬がむせる。その喉元にぴたりと、木刀の切っ先が突きつけられた。
体を切り裂くような殺気。一之瀬は微動だに出来なかった。
それで、いいような気がした。
動こうとしない一之瀬を更木が不思議に思った頃、口が動いた。
「そのまま喉を突け」
殺せ、と言っていた。更木は剣を引かず、かといって喉を突くでもなく動かなかった。
「…私を、殺せ」
本心だった。隊長もいない今、理想は理想でしかなく一之瀬を奮い立たせるものは、生かすものは、何もなかった。
殺気と共に突きつけられていた切っ先が引かれていく。
「何故」
ケッと更木が吐き捨てた。一之瀬は道場の床に寝そべったまま動けない。
「死にたがりを殺しても楽しくねぇんだよ」
一之瀬は静かに目蓋を閉じた。あぁ、私はまだ死ねない。
「自分で生きろ」
更木の言葉が何故だが心に突き刺さるような気がした。
「私を殺せ」
ただ辛くて一之瀬は言葉をほとばしらせた。
隊長を殺したこの男なら、隊長と同じ場所へ連れて行ってくれるような気がしていた。
更木に殺されれば、隊長と同じところへいけるような気がしていた
「殺せ」
「俺はてめぇが気に入ってんだぜ、これでも。誰が殺すかよ」
更木が放った木刀が床に落ちて渇いた音を立てた。カランカランと響く音。
閉じた目蓋から盛り上がった水滴が縁から崩れてツゥと流れ落ちた。
私は隊長の元にもいけずにいる
中途半端にぶら下がった状態の己を自覚する。立ち去る気配に、ただ涙した。
更木に、殺されたかった。
隊長と同じように。
一之瀬の中でぽっかりと口をあけた空洞は黒々と広がっていく。
――私は
惰性で生きている。流れるだけのままに生かされている。
あふれ出る涙を一之瀬は止められなかった。
《了》