忘れられない
31:貴方がいれば、そこが楽園
あれだけ揺るがせた出来事も時が経つに連れ沈静化していった。
何事もなかったかのように時は過ぎて。隊長は死んだ。更木が新たに隊長に任命されてから幾日か、経っていた。
私は今、敬愛してやまない隊長を殺した男の元で働いている
一之瀬の手がふと止まる。窓から見える外の天気はとてもよくて青い空が切り取られたように覗いている。隊長の判が必要な書類だ。一之瀬の気は重くなるばかりだった。
隊首室に行くのが嫌だ。
更木に逢うのが嫌だ。
――子供か、私は
嫌だ。
ただ――嫌だった
ふぅっと息をついて手元の書類を眺める。ため息ばかりついていても仕方ないと一之瀬は席を立った。
「失礼します」
「あぁん、なんだ」
扉を開くと長い髪をざんばらにしたままの男が目だけを向けた。同時にまだあどけない少女もキョロッと顔を向けた。
「あ、真樹ちゃん!」
どくん、と心臓が脈打った。
書類を持つ手がかすかに震えだす。
『真樹ちゃん』
隊長は、よく一之瀬の女名を揶揄うようにそう呼んだ。
カタカタと体が震えだすのを一之瀬は止められなかった。
冷や汗が首筋を伝い落ちる感触が判った。
「…やちる、ちょっと出てろ」
「え〜?」
更木の声がどこか遠く響いていた。更木の言葉にやちるが不満げに頬を膨らませた。
「いいから出てろ」
「わかったよ、もう。じゃね、真樹ちゃん!」
鮮やかな桃色をした髪をなびかせて少女が部屋を出て行く。扉の閉まる音がやけに大きく部屋に響いた。
椅子に座っていた更木が席を立って一之瀬に近づいてくる。
グイと胸倉を掴みあげられて、一之瀬は我に返った。部屋に備え付けの長椅子の上にその体を投げ出される。起き上がろうとした肩を更木に押さえられる。手にしていた書類がはらりと床に落ちた。
「な、何を」
喉から絞り出した声がどこか震えていた。
『真樹ちゃん』
隊長にそう、呼ばれていた。
心地好く、暖かく。そう呼ばれることが幸せだった。
「忘れられねぇのか」
更木の言葉は確かに的を射ていた。その通りだった。
忘れられるわけなんて、なかった。
鳶色の目が潤んだかと思うと一筋、雫が伝い落ちた。
「…たい、ちょう」
囁くような声が震えた。押し倒されて、なんだか情けなくて一之瀬はため息をつきたくなった。今もまだこんなにも覚えている。隊長。
更木の手が死覇装の合わせ目から入り込んでくる。指先が一之瀬の皮膚の上を這いずり始める。ぬめるそれは舌先だと判った。
…楽園
ぼんやりと一之瀬は想った。
楽園だったのかと想った。
隊長、あなたがいた頃は楽園だったのかも、知れなかった。
「忘れられねぇんだな」
更木の言葉に一之瀬の目が瞬いた。その拍子に涙が零れる。
「私は…」
『真樹ちゃん』
あの声が忘れられない。
あの頃が忘れられない。
あなたがいてくれさえすれば、そこが楽園でした
一之瀬はそっと目を閉じた。
《了》