忘れない、忘れたくない
記憶の欠片
26:ふるえる指先
「真樹ちゃん」
声と同時に腕が緩く体を拘束する。愛しいその声に、それでも仕事中だと態度はそっけない。
「隊長、仕事中です」
「冷たいね」
拗ねたように言って離れていく熱が実は名残惜しくもあった。
書類をそろえて隊長のほうへ差し出すと、隊長は黙ってそれを受け取った。ただのありふれた日常がそこにあるはずだった。それでも二人の間には何かがあった。
「決闘ね、明日になったよ」
隊長の言葉に一之瀬の体がビクリと震えた。
くるものがきたかと一之瀬は表情一つ変えないよう必死だった。
更木剣八
ばさばさの長い髪に顔を縦に一筋走る傷跡。獣染みて強く、獣染みた強さにしか興味のない男。隊に配属されてからめきめきと頭角を現し、隊長をその強さで挑発するまで時間はかからなかった。そして隊長はその挑発を、受けた。
「今夜、部屋へ参ります」
一之瀬は自分からそう言った。ただ求められるだけで終わるのは嫌だった。
「積極的な真樹ちゃんも好きだけど」
そう笑って言う隊長が。なんだか切なくなって一之瀬は背を向けた。
「隊長」
死覇装のまま訪れた隊長の部屋。隊長は暖かく一之瀬を迎え入れた。
「いらっしゃい、初めてじゃないけどね」
「誰の所為ですか」
そう云って笑い合う時間がひどく、惜しかった。
「申し訳ありません、私などのワガママで…大切な決闘を明日に控えていながら」
勝てばよし、負ければ死。万が一と思いつつ、心配で縋りつくように隊長に抱きついた。
その体がかすかに震えていた。
「恐ろしいですか」
明日の決闘が。抱き返してくる腕が、指先が震えていた。
「明日の決闘が、恐ろしいですか」
一之瀬の言葉が残酷に響く。現実が、冷たく突き刺さる。
「そうだね、怖いかな」
負ければそれはすなわち死。こうした逢瀬もこれが最後になるかもしれない。
一之瀬は首を傾けて口付けた。柔らかな唇が溶け合うように触れ合った。触れ合うだけだった口付けが深いものになり、角度を変えて何度も何度も触れ合った。
紅くぬめる舌先が互いを求め合って彷徨った。
「抱いて、ください」
後悔など遺さぬように
一之瀬の言葉に隊長の手が伸びる。一之瀬の声が、腕が震えた。
必死の訴えであることを隊長は感じ取っていた。優しく、手が腰紐を解き襟を乱していく。
敷いてあった布団に一之瀬の裸体を横たえたとき、隊長の目は優しく微笑んでいた。
伸びた腕を取り、指先を絡めたとき、その指先は震えていた。
決死の覚悟できたのだと、隊長は微笑んだ。
「真樹ちゃんから抱いてくださいなんて言われて、もう未練はないかな」
指先がビクリと震える。
「隊長。勝って、ください」
そして抱いてください。一之瀬は幼子のように一心にそう言った。
隊長は笑ってそれを聞いていた。
その微笑を一之瀬は目に灼き付けるかのようにいつまでも見つめていた。
翌日行われた決闘は更木の勝利で終わった。
揶揄うような明るい声も優しく抱きしめてくる腕も切ないような微笑も、もうないのだ。
隊長は決闘で負けて死んだ。それが全てだった。
「あああああああああ!」
ほとばしる叫び声はどこか、泣いていた。
認めたくなど、なかった。それでも。
崩れて消えた理想も優しい微笑みも抱きしめてくれた腕も震えていたあの指先も、ない。
――負けて死んだ
それが全てだった。
その瞬間から空疎な穴が一之瀬の胸にぽっかりと空いた。
《了》