ただ一度、願った
09:一度だけ抱きしめて
皆が集まる部屋にいないことを確認して部屋を後にする。その後をそっとつけて来る人影に気付いた。
「御柳くん…?」
うろ覚えだった名前は当たっていたのか御柳は否定しなかった。不思議そうな牛尾の目の前で、フーセンガムがぷうッと膨らんだ。
「屑桐さん探してンすか」
「そうだけど。どこにいるか知らないかい?」
御柳の言葉を渡りに船と訊ねる牛尾から御柳はプイと顔を逸らした。ぱちんと割れたフーセンが御柳の口へ戻っていく。
「屑桐さんはあんたになんか会わねーッスよ」
御柳の言葉に牛尾は目を瞬いた。
「え…それはどういう」
「いい加減忘れろって言ってンすよ!」
御柳のはき捨てるような言葉尻に苛立たしさを感じ取る。睨みつけてくる目はどこか純粋で真っ直ぐで。牛尾は思わず言い返そうとした言葉を飲み込んだ。
「御柳くん」
「しつこいって言ってンすよ! そんなだからいつまでも屑桐さんは」
途切れた言葉に御柳が唇を噛み締める。牛尾は何も言えずただ黙って罵声を享受するしかなかった。
「何をしている」
かけられた声に御柳の目が見開かれる。牛尾は困ったように目を瞬いた。
「屑桐さん」
顔の半分を覆う火傷痕はひどく目を引いた。長めの黒髪を頭の上で一つにくくっている。赤黒い火傷痕の中、ルビーのように紅い目が煌めいていた。
「御柳」
「――屑桐さん」
何か言おうとしたのか御柳の唇が戦慄いた。けれど声は出てこずに御柳は走るようにしてその場を去った。
「御柳くん!」
「牛尾」
思わず後を追おうとした牛尾の腕を屑桐が掴んで止めた。
「何の用だ」
「屑桐」
御柳に投げつけられた言葉がよみがえる。
『そんなだからいつまでも屑桐さんは』
「ごめん…その、大事なときに」
なんでもないようにそう言う唇が震えた。動揺を悟られないように曖昧な微笑を浮かべる。
目の奥がジワリと熱くなって視界が滲んだ。
「牛尾」
温かな腕が。気付いたときにはしっかりと抱きしめられていた。
「屑桐」
屑桐は何も言わずに牛尾を抱きしめていた。その温度に牛尾の目から涙が滲んだ。
「屑桐」
溢れる涙が頬を伝うのが判った。屑桐のシャツに染みを作ってしまうと思いながら牛尾は屑桐に抱きついた。
「やっぱり好きだ」
ピクリと屑桐の体が震えた。
「ごめん、屑桐」
――今だけ、今だけでいい
牛尾の手が屑桐をキツく抱き寄せた。
「ごめん」
抱き寄せた屑桐の顔を見ることも出来ずに牛尾はしがみついた。
一度だけ、抱きしめて
願うように思った言葉は言えずに、喉の奥で摩滅した。
「ごめん、ありがとう」
いつの間にか解かれていた屑桐の腕から抜け出して牛尾が言う。微笑を浮かべるそばから涙が溢れて牛尾はたまらず顔を背けた。
「牛尾」
いたわるような色を帯びた屑桐の言葉に、牛尾はたまらずにその場から走り去った。
御柳の言葉がいつまでも頭から消えなかった。
『そんなだからいつまでも屑桐さんは』
続きを聞く勇気が自分にあったら。
何か変わっていただろうか
立ち止まった牛尾は乱暴に溢れる涙を拭った。
《了》