それでも私はあなたを
23:優しい嘘
気配を感じ、読んでいたページから目を外すと扉が音を立てて開いた。
そこにいた人物に慌てて本を置き立ち上がる。
「狩矢様」
「あぁ、座っていてくれて構わないが」
カツカツと狩矢が歩み寄ると、ロングコートの裾が空気を孕んでフワリと浮き上がった。
狩矢がドサリとソファに腰を下ろす。その位置が一之瀬の隣で、一之瀬はどうしたらいいか判らずに立ち尽くす。伸びた狩矢の腕が隣へ一之瀬を強引に座らせた。
好意や憧れを超えて崇拝すらしている相手の隣へ腰を落ち着けることになって一之瀬は混乱を来たしてしまった。
「あの」
「なんだ」
決心して言った言葉にすら返ってくるのはなんということもない言葉だ。
狩矢の指先が短い一之瀬の黒髪をもてあそぶ。髪をいじっていた指先が滑り落ちて耳をくすぐり、頬を撫で首筋を伝う。狩矢の紅い目に見つめられているのだと思うだけでゾクリとした。
「お茶を淹れてきます」
耐え切れなくなった一之瀬がついにそう云って席を立った。その後ろからクックッと軽く笑う声が聞こえたような気がした。
水を入れたヤカンを火にかけ用意を終えるとすることがなくなった。
つい逃げ出してきてしまったあの部屋へ今頃のこのこ戻ることはできないが、このまま逃げ出したままというのもなんだか変な気がした。
狩矢の指先が触れた髪に触れる。
狩矢には尊敬と崇拝の念を持っているほかに感謝もしている。
――そうだ
何もかもをなくしてただ彷徨っていた自分を救ったのは他でもない狩矢だった。
絶望と渇望の中でおぼれていた自分を彼は救い出してくれた。
何もかもを失くして私は出会った
あのときの驚きと衝撃は恐らく忘れることはないだろうし、忘れたくはなかった。
ピィッと言う短い音に我に返るとヤカンの蓋から湯気が出て湯がわいていた。
慌てて火を止め、手順に従って茶を淹れる。その手付きはもう慣れたもので着々と手順をこなしていった。
用意をした物を盆に乗せ炊事場を出る。
部屋に戻ると狩矢は出たときと同じ位置で首だけを回して礼を言った。
「わざわざ悪かったかな」
「いえ」
狩矢の下座に膝をつき、盆の上のものを狩矢の前へ並べていく。慣れた手つきで行うその動作を、狩矢の紅い目がぼんやりと見つめていた。
「どうぞ」
盆を持ち、引き上げようとするのを狩矢が止める。
「一人で飲むのも寂しいものだ…付き合わないかね、酒ではないが」
「…はい」
有無を言わせぬ物腰に一之瀬は反射的に返事をした。
炊事場へ戻ろうと背を向けた肩をつかまれる。振り向く前に振り向かされ、体のバランスを崩して倒れそうになるのをとっさに堪えた。その勢いのままソファの上に押し倒される。
「狩矢様…ッ」
開いた唇が重なり舌が入り込んでくる。それでも舌先は揶揄うように歯列をなぞるだけでゆっくりと離れていった。
古びた屋敷の天井が、狩矢の肩越しに見えた。
「助かっているよ、色々とね」
「…ありがとうございます」
押し倒されたままで律儀に返事をする様子に狩矢が肩を震わせて笑う。
「しかし…もう少し抵抗されると思ったんだが」
狩矢の指先がフードの合わせ目から覗く鎖骨をなぞった。その指先の動きで体中の熱が動くような気すらした。
「…構いません」
そう言って体を起こし、狩矢の唇に触れる。触れるだけのキスの後、一之瀬の舌先が狩矢の唇を舐めた。
「…君はこれからもそばにいてくれるか」
それは嘘、だ
きっと利用価値が無くなればあっさりと捨てられるだろうことは判っている
それでも
「はい」
一之瀬の手が狩矢のロングコートを脱がせる。
あなたは私に理由をくれた
だから
あなたが私を見ていなくても
私はあなたを見ていよう
二人の唇が重なったとき、古時計の鐘が時刻を知らせた。
《了》