お前では
21:空
執務室の前で足が止まる。必要な書類を出すだけなのだと思っても足が前に進まない。
以前は楽しみですらあったはずの執務室への出入りがひどく億劫になっていた。
――あの方はもういない
しばらく前に行われた儀式を思い出す。
慕っていた隊長を、隊員の目の前で打ち倒して隊長の座についた男がこの扉の奥に待っている。激昂して抜刀しかけた自分を相手も良くは思っていないだろうと思うと余計に気が滅入った。手元の書類を振り捨てて、扉の前から立ち去れたらどんなにか良いだろう。
それでも仕事なのだと言い聞かせて扉をノックした。
「入れ」
気怠そうな声が返り、一之瀬はそっと扉を開けた。
長いざんばらの髪に顔を縦に走る傷跡。気怠そうに向けられた視線はまるで獣のようだと思った。
「なんだテメェか」
いつもそばにいるはずの副隊長の姿が見えないことが一之瀬の気をさらに重くした。
この男と二人きりとは。
「…書類に判をお願いします」
用件のみをと割り切って口を開いた一之瀬の様子を剣八は面白そうに見ていた。
「メンドくせぇな…よこせ」
黙って書類を突き出すと、面白くもなさそうに受け取って目を通し始める。
その席には少し前まで慕ってやまない隊長が座っていた。思わず思い出して、慌ててその考えを振り払った。規定に従った決闘であった以上結果は受け入れなければならなかった。
「おい、ここはなんだ」
かけられた声に慌てて身を乗り出した。
かと思うと一気に胸倉を捕まれ引き上げられる。スゴイ力だと思う前に机の上に叩きつけられて背中が痛んだ。
「――ッ!」
机の上にあった備品が凄まじい音を立てて床へ落ちていく。気付いたときには上から圧し掛かられていた。
「何を…!」
「寂しそうな顔しやがって」
ニタリと笑う剣八の表情から読み取った事実に背筋が凍った。
「馬鹿にするな!」
叫ぶ声を誰か聞きとめてくれないかと思いながら叫ぶ。その声はむなしく部屋にこだました。
剣八の手が乱暴に死覇装の襟をはだけさせる。
「やめろ! やめ――」
現れた胸の上を剣八の指先が這う。
殴りかかろうとする腕はことごとく止められ、蹴り上げようとする足はむなしく宙を蹴った。
腰紐が解かれ袴が床へ落ちる衣擦れの音がした。
「やめ…」
解かれた腰紐が乱暴に振り捨てられた。剣八が大きく舌打ちをして一之瀬の上からどいた。
「やめだ、つまんねぇ」
一之瀬の上からどいた剣八は黙って扉の方へ向かった。最後とばかりに振り向いて、唐突な終わりに思わず呆然としていた一之瀬に剣八が言い捨てる。
「泣くな」
気付けば視界が滲んでいて、体を起こすとぽたぽたと雫が落ちた。
――情けない
扉が乱暴に閉められる音と同時に喉の奥から熱いものがこみ上げた。
「――…っくぅ、う…」
乱された死覇装の胸をかき合わせる指に力がこもる。関節が白くなるほど強く握り締めていることには気付かなかった。
涙がとめどなく溢れて止まらなかった。
――情けない
「――ッは、ぁ…」
声を殺す合間に息を吸う。喉が軋んで熱くなったような気がした。零れる滴を拭いもせずにただ声を殺した。
それでもどこか冷静に見つめていた。
――埋まらない
埋まらない空洞がどこかぽっかりとあいたまま。抱かれそうになってなお埋まらぬ。
ようやくおさまってきた泣き声を殺して、脱がされた衣服を拾い集めた。
ひどく惨めな感覚に目の奥が熱くなる。ぽたぽたと落ちる滴を拭って腰紐を締めなおす。
ぽっかりとあいた空洞は埋まらなかった
一之瀬の目がぼんやりと目の前にある隊長席の椅子を見つめた。
――更木、お前では満たされない
一之瀬はそのとき初めて出奔を意識した。
《了》