触覚しかないこの世界でオレ達は
19:縋りつく
振り上げた腕がしなる。握り締めた拳が思い切り壁を殴打した。
ぶつかり合う低い音と衝撃。それがすべて。
ビィンとしびれる感覚に瑶二は手が震えるのを感じた。
「ふぅん…」
握り締めた拳は、壁と当たった場所だけほんのり赤くなっている。血の通っている紅色。
もう一度腕を振り上げたとき鋭い声が瑶二の動きを停止させた。
「瑶二! 何してんだよ!」
目線を向ければ栗色のくせっ毛が駆け寄ってくるところだった。ぱたぱたと足音高く駆け寄ってくる奈津生の手が振り上げられた瑶二の手を押さえる。
「何してんだよ」
「だっていたそーじゃん、壁殴ったら」
しれっとそう言うと奈津生がハァッとため息をついた。奈津生の狼のような尻尾がフサッと揺れる。髪と同じ栗色の毛をした耳がぴくぴくと動いて瑶二の目を愉しませる。
「紅くなってる」
奈津生の言葉に目を向ければ一部分だけがほんのり紅くなっていた。瑶二の肌は白く、おかげでその一箇所だけが酷く浮いて見えた。
痛みはない。痺れも一時だけでもう消えてしまっていた。
「な? ちょっといたそーだろ? でも痺れるだけなんだぜ」
楽しげにそう云って小首を傾げて見せる瑶二の様子に、奈津生はもう一度ため息をついた。
長いストレートヘアがさらりと瑶二の肩から滑り落ちる。
「怪我とかしたらどうするんだよ…先生に怒られるんじゃないの?」
「ヘーキだよ痛くねーし」
「だから大変なんじゃん」
瑶二の長い尻尾がピンと立つ。肌と同じように白い毛の耳と尻尾がピクンと揺れる。
瑶二の女性染みた顔がにまっと笑った。奈津生の眉がピクリと動く。
「心配してくれるんだ」
「当たり前だろ」
へヘッと瑶二が笑う。つられて奈津生も笑い出した。
「サンキュ、奈津生」
「はいはい。手当てしてやるからこっち来いって」
「はーい」
奈津生が手を放しても瑶二は大人しくついてくる。ドサリとソファに座って奈津生が救急箱を引っ張り出すのを、見るともなく見ていた。
「ほい、手出して」
握り締めたままの拳を突き出すと奈津生の指がそっと拳を解いていく。
「なぁ、よーじ」
「んー?」
拳を解き終えて奈津生が湿布を引っ張り出す。張り付く感覚だけが瑶二に与えられ、そのヒヤリとする冷たさすら感じない。ゼロは無痛であると同時に温度覚もない。
人肌の温かさも氷の冷たさも知ることはない
「何でこんなことすんだ?」
奈津生の大きな目がキョロリと瑶二を見上げる。その真っ直ぐな視線にゾクリとしながら瑶二は笑って答えた。
「だって、たのしーじゃん。痛そうだなって想像すると」
頬をわずかに紅潮させながら嬉々として語る瑶二を奈津生が真っ直ぐ見つめる。
触覚だけしかないこの世界の中で。
ともすれば忘れそうになる生きているということ。
生を思い出すように、この『痛み』に縋って生きている。
「ま、確かにたのしーけどね…」
「だろ? だろ?」
ため息まじりの奈津生の言葉に瑶二の尻尾がふりふりと揺れる。
「でもある程度にしとけよ。先生に怒られたくないし」
奈津生の目がきらりと煌めく。その様に瑶二はゾクリと快感にも似た感覚を覚える。
「瑶二に死なれたくないし」
瑶二の湿布を張られた手が伸びて奈津生の頭を引き寄せる。
チュッと音を立てて唇が触れ合った。
「オレも奈津生残して死にたくないよ」
抱きしめた体はほんのり温かい気がした。
《了》