あなたが隣にいない
それが普通 それが苦痛
17:いない
「動き出しが遅いよ! ちゃんと頭働かせてんの?!」
普段以上に目に付くミスに怒鳴り声を上げる。相手の不服そうな顔にさらに言い募りそうになるのを必死に堪えた。飲み込んだ言葉と共に怒りも喉の奥へ押しやる。
苛立ちの原因は判っていた。
天城がいない。それだけ。
「翼さん」
心配そうに駆け寄ってくる風祭に仕草だけで大丈夫だといって顔を上げた。
天城がドイツへ発って何日かが経過していた。
日が経つにつれ想いが規模を大きくするばかりで収集は一切つかなくなるばかりだった。
「すまない」と謝っていた天城の顔がちらついては消えていく。
不安なのだ。
正直に言ってしまえば。
天城が目の届くところにいないだけでこんなにも。
どうしようもなく、不安で。
自分の知らないところで何かあったりしないかとか。
自分の知らないところで傷ついていたりしないかとか。
「ちくしょう…」
舌打ちして髪をかき上げる。
八つ当たりだと判っている。それでもどうしようもなく。
「翼」
それまで黙ってみていただけだった黒川が椎名に声をかけた。
「なんだよ、マサキ」
苛立ちそのままをぶつけるような口調に怯むこともなく、黒川は言葉を続けた。
「そんなに気になるなら電話でもしてみろよ」
「電話?」
思わずあっけに取られる椎名に黒川はため息をついた。
「してないのかよ? どうせ番号聞いてあるんだろ?」
「電話か…」
呆れる黒川をよそに椎名が言葉を噛み締めるように繰り返した。
「判った。してみる」
誰にともなく言葉を発して椎名は駆け出した。
選抜の練習を終えて帰宅した椎名は真っ先に携帯を開いた。
発つ前、無理矢理に聞き出した番号は使いもしないのに携帯のメモリに入れてあった。
一瞬、時差のことが頭をかすめたが、番号を押す指先は止まらなかった。
繰り返す呼び出し音。やっぱり無理だったかなと諦めた頃にガチャリと受話器を取る音がした。心臓が思い切り跳ね上がるように脈打った。
「『もしもし』」
聞きなれない発音はドイツ語か。けれど聞きなれたその声に。
椎名の顔に微笑が浮かんだ。
「ぼくだけど。椎名翼」
息を呑むような音にすら、喜びを感じる。
「椎名か…」
日本語へ変わる発音と言葉。聞きなれた音程と口調。
それだけでこんなにも安堵する。嬉しい。
あなたが隣にいない
それが普通 それが苦痛
「お前の声が、聞きたくて」
けれどあなたは今、そこにいてくれる
《了》