役に立たない使えない使わない
でも
捨てられない
09:砂時計
朝、起きると目に付く位置にあるそれは酷く古ぼけている。
ニスの艶は落ちて木の土台はほんのわずかずつ、木目の隙間が開きだしている気がした。
寝起きでぼやけた頭のまま、長い髪をかき回した。薄紫の髪がゆるく流れる。
ベッドから抜け出すとそれを手に取る。
指先でクルクルともてあそべば、内部の砂が硝子の中でさらさらと移動する。
砂時計。自身の髪と同じ色の砂が流れるように滑り落ちていく。
配属と同時に共同生活が決まり、持ち込む私物を考えたときに砂時計を持ち込んだ。
起き抜けの感傷を控えめなノックの音がさえぎった。
「起きているか、ルシード」
顔を上げたタイミングでゼファーが部屋に入ってくる。既に仕度を整えた格好で、寝起きのルシードの姿に眉を寄せた。それを無視してルシードは口を開く。
「なんだよ、朝っぱらから。ミーティングならまだだろ」
小さく息を吐いてゼファーはいつもどおりの声を出した。
「今日は街へ出るんだが、ご実家に送るものはないか?」
二人は同郷なので小荷物程度なら互いに投函を頼んでしまう。それを訊きにきたらしい。
「ウチにか? ねぇよ…」
言葉の途中でルシードがゼファーの視線に気づく。ニヤリと笑うとゼファーの方も笑い返してきた。ルシードの手の中で、サラと砂の流れる音がした。
「お前の物持ちが良いとは意外だな…」
「なつかしい、だろ?」
木製の土台と硝子部分が離れるような細工もない。
デザインもタイプも古く、雑貨店に行けばもう少し気の利いた物があるだろう。
「とうに捨てるか失くすかしたと思っていたが」
ルシードの手からゼファーが砂時計を受け取る。懐かしいような感覚は錯覚ではない。
「あの頃以来、か」
ゼファーの顔に微笑が浮かび、ルシードが照れたようにそっぽを向いた。
理由は忘れたがゼファーの家に招かれた。親同士のうわついた会話に飽きたルシードはゼファーを自室へ引っ張り込ませた。部屋の中は『よく出来る子』らしく小奇麗でルシードは不機嫌そうに鼻を鳴らした。本棚を引っ掻き回すのを、ゼファーは年上の余裕で見守るしか手がなかった。
調えられた机の上にあった砂時計に目がいったのは本棚を荒らすのに飽きた頃だ。
木製の土台と軸はニスの艶で輝き、煌めく硝子の中、紫苑の粒子が日の光でところどころ発光しているように見えた。新鮮味が、ルシードを一瞬で虜にした。
「ゼファア、あれは?」
「親戚が遠出をした時、土産としてくれたものだ」
急に大人しくなった事に気づかず、ゼファーは散らばった本を片付けながら答える。
「舶来ものだと言っていたし…俺も、気に入っている」
目線を向けると、そう話すゼファーの顔は嬉しそうに微笑んでいた。
「なぁ、ゼファア」
クルンと振り返るルシードのは利かん気な女の子のようにゼファーを凝視していた。
「欲しい、おれ、アレが欲しい!」
困ったような顔をして首を振るゼファーの胸倉を、ルシードの小さな手が掴む。
「…だめだ。アレは俺のだし、お前のものじゃ」
「欲しい! イヤだ欲しい!!」
頑固な答えにルシードはゼファーのシャツから振り捨てるように手を離した。
ルシードの手がさっと伸びて砂時計を奪い取るとゼファーの態度も豹変した。
「ルシード! それは俺のだ! 返せッ!」
飛び回って逃げるルシードをゼファーが必死に追いかける。オレのだ、返せ、の応酬が繰り返され、その声が次第に大きさを増す。
「ルシード、返せ!」
ついに捕まり、ゼファーの手が差し出される。
フンとルシードは勢いよくそっぽを向いた。カッとなったゼファーの平手がルシードに命中した。響く音と痛みに、ルシードは火がついたように泣き叫んだ。近づいてくる足音と、それでも離そうとしないルシードにゼファーは途方にくれた。
泣きたいような表情のゼファーから事情を聞いたそれぞれの親の説得にもルシードは屈しなかった。
「ルシード君の分もたのんであげるわよ」にも「それはあんたのじゃないでしょ」というもっともな言葉にも首を縦に振らず、握り締めた手は離さなかった。
「ゼファアんじゃなきゃイヤだ!」
子供特有の理屈に親同士が顔を見合わせる。
ゼファーの母親が吹っ切れたように笑うと息子の頭をツンとつついた。
「あんたが決めなさい、いいわね?」
そう云うと驚いて目を瞬かせる息子を置いて、客人を連れて戻っていってしまった。
窺うようにそろりと眺めるルシードの目は真っ赤だ。
それでも睨みつけて握り締めた砂時計を胸に引き寄せ、離すまいとした気概を見せている。
手放したくないのはゼファーだって同じだ。貰い物の中では気に入っていたのに。
「ルシード」
返してくれれば良いのに。人の物だって判ってるのに欲しがる自体おかしいだろ?
「やだ、絶対やだ! 返さねーからなゼッテー!」
仕上げに舌を出されてゼファーの表情が渋る。万策尽きて、暗緑色の目がわずかに潤んだ。
一瞬、俯いたかと思うとゼファーがバネ仕掛けのように顔を上げた。
「いいだろう、やる」
目を瞬いて固まるルシードにゼファーは指を突きつけて叫ぶように言い切った。
「やるから出て行けッ! 顔も見せるなッ!」
ルシードは腹の底から叫んで駆け出した。
「ゼファアのバカやろー!」
「お前、ホント根に持つよな…あの後マジで無視入ってたもんな」
ルシードはベッドから抜け出すと、ゼファーに背を向けて仕度を始めた。そろそろ仕度しておかないとミーティングに遅れるかもしれない時間だ。
「大事なものだったんだぞ? 珍しかったしな」
クルリとひっくり返された砂時計はゼファーの手の中でサラサラと砂を落としていく。
黒いシャツを着て上着の留め金をいじりながらルシードが呟くようにゼファーに言った。
「仕方ねぇだろ。お前のだから欲しかったんだし…あんな嬉しそうに言うからよ」
プッと吹き出す気配にルシードの眉がピクリとつりあがる。
「気にするな、ルシード。初恋とは実らないものなのだ」
「テメェな…」
プルプル震える手で留め金を留めると振り向くとゼファーの後ろ姿と向き合う。
砂時計を取り合った頃から見上げたままの身長差は今も変わらず、ゼファーの方が背が高い。真っ直ぐに伸びた茶褐色の髪が日を反射して金に見える。それがひどく好きだ。
「なぁ、ゼファー」
ゼファーが振り向くと仕度を終えたルシードがはにかむように頬を掻きながら、様子を窺っていた。利かん気の強い紅い目は年を経ても健在だ。
「…なんか、欲しいモンとかあっか?」
ゼファーの顔にゆっくりと微笑が広がる。
思わす頬が火照るのが判ったがどうすることも出来ず、ルシードは半ばヤケになってそれに見惚れた。
「ないな。気にするな」
紅く染まったルシードの頬にゼファーの唇が触れた。
チュッと濡れた音を立てて離れた唇が声を紡ぐ。
「今はこうして手近にあるのだからな」
ミーティングに遅れるなと言って部屋を出る後姿が見えなくなって初めて、ルシードは手の中に砂時計が戻されていたことに気づいた。
「…手近、かよ…くそ…」
砂時計を定位置に戻すと、火照った頬を誤魔化すようにこすった。
水場に駆け込み冷水で浴びるように顔を洗ったルシードが時計を見て、慌てて部屋を飛び出す。
砂時計の硝子がきらりと煌めいた
《了》