まだ、なくしたままで手元に戻らないものがあるよ、先生
先生が教えてくれた方法以外に別の手もあったよ
きっとあの人殺し犬には丁度いい
08:満たされない心
駕籠の簾の奥、チラリと。目に映るそれ。
その有様を見て唇は弓なりに反って嘲笑いをかたちどった。
「止めろ」
まだ高い少年の声に駕籠が制止する。スルリと簾をのけて地面に降り立つとチリチリと可愛らしい鈴の音をさせる二人がついてくる。背後には巨木のような影がいつの間にか付き添った。
それらを仕草だけで不要だと下がらせると、足音もなく少年は歩み寄った。
本宅へ戻って待てと駕篭かきに言うと彼らは追われる兎のように駆け出した。
街路を歩くのは久しぶりで、それは暖かいような懐かしいような痛いような感覚を呼び起こした。人気のなさと時間帯と距離を計算した後、少年は声をかけた。
「こんばんは」
振り返る背は高く視線は上から見下ろしてくる。それは暖かく痛い。
「君は…」
わずかに首を傾げて考え込む仕草が失礼にならないよう抑えている。それは彼の弟とあまりにも違う。尻尾のように伸びた髪はそこだけが闇のように黒い。
彼が手に持つ提灯が明るさを増す。
「憶えてませんか、鈴、です」
「あぁ! 鉄之助と一緒にいた子だね?」
そう喋る声は愛しいあの人とは似ても似つかないほど明朗で、清々しく殺意がわいた。
鈴の黒々とした渦に気づくこともなく、彼は楽しげに、そしてどこか不安げに鉄之助のことを訊いた。
「迷惑とか、かけてないかな? あの性格だからさ…」
そこから彼は知らないのだと見当をつける。いくらアノ犬でも喋り捲るほど馬鹿じゃないってコトかと嘲笑した。相槌を打ちながら共に歩く。慎重な相槌。
こちらの本意を気づいているかそうでないか、計り知れないところは愛しい人と似ている。
生活と目的とほんのちょびっとの嫌悪のために殺した爺が仕立てた服の艶が、月明かりを淡く照り返した。
「ずいぶん、綺麗なものなんだね」
目を見張る辰之助の前に袖を差し出す。
「触ったって、構いませんよ」
一見して判るような紋ではない。体の動きと光の角度と生地の柔軟さで紋が浮かび上がる最高級。無地の召し物が、踊るように四肢を動かすだけで華やかな紋を浮かび上がらせた。
触れる指先。触れた途端に脆くも崩れそうな幻想に怯えた指使いに鈴の口元が嘲笑った。
不意に、辰之助の顔が曇った。それは嫌悪や憎悪や殺意ではなく、哀れみといった類の。
大きな手が鈴の手を取る。黒く色付けを施した爪は長く猫のようだった。
「…鉄の事は嫌い、かい」
爪を珍しそうに触った後に、辰之助が呟いた。
突然の問い。不意を狙う問いの対処には慣れている。
鈴の唇がゆっくりと噛み締めるように動いた。
「好き、ですよ」
それはもう一思いに殺すなんて勿体ない事は絶対しないくらいに。
苦しんで苦しんで苦しんで? 鉄の汚い全てが見たいほどに好きだよ。
「兄さんは…違うんですか」
ぽろんと零れた単語に泣きたくなる疼痛を覚えた。
だがそれ以上に泣きたいような顔をして、彼は微笑んだ。
鉄之助と似てない顔だ、大人しくて面長で。
「君と同じかな」
予想外の答えに体中が動揺する。
思い出す限りの中で彼は鉄之助を大事にしていたし守っていた。
だから愚かにも躊躇いもせず好きだと言う、と。
心臓が脈打つ、指先が震えて爪がこすれあい、カシリと乾いた音を立てた。
思い切りこの男に言ってやりたかった。
鉄之助は綺麗なのでも純粋なのでも無垢なのでも、ましてや救いなどではないと。
「好き、ですか?」
あぁまた、泣きたいような複雑な表情を見せる。
遠い遠い昔に見たことがあるよ、この顔は。
「ねぇ、兄貴はオレ好き?」
幼い自分はただなんの迷いもなく言った。
「――そうだね」
兄貴はそう云ってすぐ背を向けてしまった。
その一瞬に見えた表情。
――よく似てる
「なんて呼んだら良いですか?」
辰之助の手にある提灯を少年の指が抜き取ると火がふぅと消えた。
闇の中で正体のないものが啼いている。
「えッ? 別に、鉄之助の兄で…」
闇に怯えたような雰囲気に狂おしい衝動が沸いた。
「鉄じゃなく、貴方様の名前が知りたいのです」
流れるように出たよそ行きの言葉遣いに己の具合を知る。
不意に寄り添う体に辰之助が息を呑む。
皮膚に触れる生地はさらりと滑って更なる奥へ侵入を許してしまいそうだ。
「…辰之助、ですが」
二度目のはずのその音は、明らかな快感となって鈴の中へ染みとおった。
「辰之助、さん」
にっこり微笑む鈴の顔は家々や店店から漏れる光が照らし出す。
鈴の指が動いて頬をなぞる。硬い爪がピチリと微かな音を立てて皮膚を裂いた。
辰之助の頬に紅い線を描きながら鈴は顎を上げた。
触れ合う唇
鈴の中でたまらない衝動が湧き上がる。
肩に手をかけ唇を合わせる隙間から舌を絡める。驚いて逃げる頭をガシリと固定する。
満足するまで味わうと、ゆっくり離れていく。驚きと衝撃に呼吸を荒くしたまま逃げることも出来ない辰之助の体に手を這わす。
あぁ意外と細いなぁ兄貴よりも先生よりも細いかもしれない。
先生はほら、ココにいてくれるけど。兄貴はいてくれないんだ。刀だけ遺して。
二人とも大好きなのにな。なくすと辛いんだよなァ。
――あァ、そうだ
鈴がクスクスと笑う。
「オレの兄貴になってください」
ずっとずっと一緒だった片割れがいなくなるの辛いんだ。
鉄も味わうといいんだ。
そして鉄が代わりに頼れる人を見つけて、オレがそいつを殺してやろう。
鈴は自分の言葉に声を上げて笑い出した。その声に誘われるようにチリリと鈴の音が響く。
その音に初めて動きを取り戻したように辰之助の体がビクリと跳ねた。
そんな仕草や様子すら愛しいほどに、もうコレが欲しくなっている。
「あ、なんだもう終わりかァ」
つまらなさそうに言う鈴はあっさり踵を返した。
灯りの消えた提灯をぽいと放ると、どこから出てきたのか腰までしかないような背丈の子供がそれを拾った。チリンチリンと軽やかな鈴の音をさせて、子供は鈴の後をついていく。
「辰之助さん」
からくり仕掛けのように振り返った鈴はこれ以上ない笑みを浮かべて言った。
「本気ですから」
呆然とする彼をおいて鈴は歩き出した。
鉄、お前からあの兄さんを奪ったらどうするだろう
奪われた分は、きっちり返さなくちゃなァ?
「あーあァ、欲しくなっちゃったなァ」
銀髪がさらりと流れ天を仰いだ。
《了》