貴女を忘れるのに時間がかかります
でも貴女のおかげで楽しみが増えました
貴女は大切な、普通の、ヒトでした
07:記憶
そよ風が洗濯物ひらめかせ、白い布が青い空に映えた。
昼夜の区別なく動き回る仕事に慣れて風景に意味など持たなくなっていた。
初めて姉と呼べた女性の喪失が間を作り、落ち着かないまま忙しなく雑務をかってでては時間が過ぎるのを待った。
時間は確実に過ぎ去って、恒例の祭りを終え、町々は冷静を取り戻す。
常態をようやく獲得して安堵の息を吐いた。
「おッススム!」
内心を察したように現れては騒ぐのは鉄之助だ。年不相応な身長は、それでも一連の事件以来伸びる兆しを見せ始めていた。伸びやかな手足が絶え間なく動いて辺りを和ませる。
駆けてきた方へ目を向ければ過保護な彼の兄がせっせと洗濯物を干していた。
「…アレ、ええんか」
本来は鉄之助の仕事なのだろうことを、彼は黙々とこなしていた。怒るでもなく。
ススムの指摘に鉄之助の顔が曇る。それは怒られたバツの悪さの類ではなかった。
「辰兄…さ、ヘンなんだよ」
言外に濁した言葉が最近の大騒動であったことは察しがつく。
ギリギリに保たれていた兄弟の均衡
それを破壊したのはほかならぬ、弟
「いつもヘンやろ」
「ちげぇよ! 絶対違う!!」
サラリと言った言葉に鉄之助は瞬時に噛み付いた。
「同じなんだぜ? 細かいコトで怒るし…でもちげーんだよ…」
崩れた均衡を乗り越え抜け出した弟
では、兄は?
「たぶん」
鉄之助の声が揺れた。大きな目が伏せられ潤む。ススムの裾を掴む、まだ小さな手。
「お前に言うのおかしいって判ってんだ! でもさ! やっぱ考えるとお前しかいねーし」
キッと見上げる目は立派な男の目だった。男の子でも青年でもなく、男の。
「アユ姉のことだ」
ススムが息を呑む。体中が大きく脈打った気がした。
「ぜってー、そうだって! よくボケッとしてるし、なんか、なんかさ」
もどかしげに鉄之助が髪をかきむしった。
それを無感動に眺めながら動揺を殺し、記憶を引っ張り出す。
市村兄弟について特筆事項はない。あぁ、弟は土方副長の小姓になった。
弟はチョロチョロ面倒くさいだけで、兄の方は真面目に仕事はこなす。
椿事も耳にしない。報告を要する揉め事もない。
面倒はあるがそれは交友関係の一言で片付く範囲内だ。ただ過保護。
それだけ、の…はず。
見上げるような縋るような鉄之助に気づいてススムは無感動に言った。
「オレにどうにかしろいうんか。アホか、ガキやないんやで」
ほっときゃええ、そう言うはずだった。けれど口をついたのは。
「…話、聞きゃあええんやろ」
ぱぁっと鉄之助の顔一面に笑みが広がった。
「頼むぜ、ススム!」
まだ慣れない呼び名にススムの頬に赤味が増した。
『洗濯日和やねぇ』
押し付けられた弟の雑務をこなしていると彼女が。
『そうですね』
風がなぶる彼女の黒髪。押さえる指先は白く顔は穏やかに美しく。
あなたの黒子はどこにあったんですか 口元ですか目元ですか
それだけなのに忘れられませんよ
あなたが死んだ、その日もすっきり晴れた
洗濯日和でした
行動的ではない辰之助の部屋へ行く。
洗濯干しを終えた彼は慌てて仕事へと駆け戻っていった。
押し付けられた雑務を終えて本業へ戻る。帳面と筆記具をそろえ、算盤を引き寄せる。
障子をパタンと閉めると声がかけられた。
「ホンマとろいやっちゃな、お前」
急ぎ戻った部屋で待っていたのは、未処理の書類や帳面ではなく容赦など微塵もない毒舌を吐く弟の友達だった。
「な…んで、あなたが」
書類や帳面が滑り落ち、算盤がガジャンとものすごい音を立てた。
「鉄之助がお前が変やいうからやろ。理由もなしに呆けるほどヒマとちゃうんやで」
ススムは未処理の帳面をパラリとめくると放り出す。
「そないにキツかったか」
会話をかえりみれば脈絡はない、けれど辰之助にその言葉は意味を持ち、突き刺さるようだった。
ヒクつく口元を必死に制しようとして失敗する。
「な…何がですか」
途端にススムの目が不愉快そうに眇められた。
「それをオレに言えいうんか、お前」
辰之助の顔もその言葉に引き締まる。睨みつけるような目線。
「あなたには関係ないでしょう」
それはいつか自分が鉄之助に言った言葉だと認識する前に手が伸びた。
襟を掴んで書類の散らばった畳の上へ引き倒す。
けれどあの時の鉄之助のように訴える言葉もないススムはそのまま、辰之助を押さえることしか出来なかった。
「未練やないか」
呟いた言葉に拳で返事があった。
押さえつけられた体勢から辰之助の腕がしなり、ススムの白い頬を殴打した。
にじみ出るような怒りを隠そうともしないススムを辰之助が睨み返す。
姉上と呼べなかった
甘えも優しくも出来なかった
細っこくて厳しい、背中しか見えていなかった
姉弟でしょうとは訊かなかった
陽だまりのでよく会った
それぞれの苦労話や逸話を楽しげに笑いあった
貴女になにもしてやれなかった
「…そうかもな」
吐き捨てるような言葉にススムの腕がしなった。
骨がぶつかるような音の直後に皮膚が赤味を増す。
しばらく経てば青黒く腫れるだろうと判った。
「……ッく」
ススムの肩が揺れてクックックと笑いが漏れた。馬乗りに乗った辰之助の上へうつ伏せてススムが笑う。顔を上げるとススムを窺う辰之助と目があった。
見上げてくるススムの顔は女装するというだけあって綺麗で、艶やかな目がじっと辰之助を見ていた。
「泣きもせぇへんな」
一発殴れば痛みにつられて泣くか思た、と呟くススムに辰之助は嘆息した。
「そんな子供じゃない…」
彼女は死んだ
辛くないといえばそれは嘘だ
「……オレは泣いた」
辰之助の胸の上でススムがボソリと言った。
アイツのおかげやなぁと呟くと辰之助がクスリと笑った。
「鉄らしいな」
二人が共に哀しいと泣きながら怒る。
『辰兄だって哀しいだろッ泣けよ!』
『泣けよぉぉー…ッ』
泣きながら人に泣け泣けという。それはきっと、鉄之助の優しさ。
どこかがフワリと昇華して二人に安定が戻る。
「でもお前だって、子供だろ?」
揶揄して言うとススムの柳眉がピクリとつり上がった。
「犯したろか」
憮然として言ったススムの唇にツイと伸び上がって口付ける。
口元に浮かんだ笑みを隠そうともせず、ススムは手を這い回し始めた。
「なッ?! おい、待てッ」
「誘ったんはソッチやろ?」
優勢を取り戻したススムが体を動かす。
簡単にはだける襟元と慌てる辰之助が楽しくて仕方ない。
甘くなりかけた全てを、障子を叩き開ける音がぶち壊した。
ガコンと障子が桟から外れる音が、妙に辰之助の耳に響いた。
「テメェ、ススムー! 何してんだよ!」
火を噴く勢いで叫び出す鉄之助にススムはあからさまにため息を吐く。
「なんも知らんと黙っとりゃええねん」
「テメェェ!!」
鉄之助が部屋に飛び込むのと、辰之助が辺りの書類を認識したのは同時だった。
凄まじいまでの物音と恒例となった彼が弟を叱り飛ばす声が響き渡った。
《了》