蛍と、君と
99:蛍狩り
夜半を過ぎても道場から少し離れた位置にある水田に子供たちがそれぞれにたむろしていた。蛍狩りという風物詩の名目で夜更かしを許された彼らは常なら見ることのできない夜の景色に興奮気味に騒いでいた。小川や畦道の草へホタルが散っている。仄かなようで何度も瞬いてみせるそれは儚げでありながらしたたかだった。道場で少年たちを教えている藤堂も招かれ参加していた。それぞれの浴衣の色が月明かりの中でさまざまに瞬いた。誰それの姉妹など、女性が混じるとその風景は一層華やいだ。女性の衣服というのは男性のそれと違って種類や柄、色彩も豊富だ。子供たちも普段なら着ない浴衣の格好をそれぞれに冷やかしながら楽しんでいた。
「スザク、ほら、ホタルだ」
「ちゃんと戻してやれよ。短い命なんだから」
「判ってるって」
道場に名を冠す枢木の子息であるスザクも浴衣に身を包んでいた。上級の家庭らしく縫い目がまっすぐで目立たない高価そうな浴衣をまとっている。スザクの才を見出したのが誰あろう藤堂だ。スザクは綿が水を吸うように吸収し成長していく。彼自身も聡明で早熟な性質だが、歳並みの悪さもする。親の威光をかさに着ない、まっすぐで正義感あふれる気性だ。そんな彼も今日は話が違うらしく歳並みに仲の良い少年たちと蛍狩りを楽しんでいた。藤堂は微笑ましくそれを見ていた。
藤堂の目線が泳いで朝比奈の方を向いた。普段ならうるさいほどに藤堂にまとわりついてはスザクと何かと張り合う彼が今日はおとなしい。まさかスザクに相手にされないからだとも思えないが、とひとりごちながら藤堂は朝比奈を視界の端に捕らえた。しきりに腕時計を見ては夜空を見上げている。浴衣に腕時計をしてくる不似合いさが逆に朝比奈らしい。朝比奈は冗談のような丸眼鏡を常用している。その所為か女性陣の目を引くこともなく見過ごされがちだ。それでいて朝比奈は鼻筋が通っていて目もぱっちりと大きく可愛らしい部類に入る顔立ちをしている。口元もすっきりと引き締まっていて唇の紅さが目を引く。
「それでは、そろそろお開きにしまーす」
誰かの親御さんの声に子供たちは不満そうに声をあげながらもそれぞれに手を振って帰途につく。
「藤堂先生、さようなら」
「さようなら。暗いから気をつけて」
道場に通っている子たちは律儀に藤堂へいちいち挨拶をして帰り、藤堂も微笑してそれに応えた。子供達が散っていくように蛍もちろちろと消えて散っていく。大方の子供が帰り、幹事の男性から挨拶をされて藤堂も帰ろうとしたその浴衣の袖を引かれた。不思議に思えば妙に上機嫌に笑んだ朝比奈がいた。
「藤堂さん、ちょっとこの後いいですか?」
「…構わないが」
朝比奈は腕時計を見てから夜空を見上げる。蛍のような星星が蒸し暑い日本独特の夏の空を彩っていた。たとえ呼び名をエリア11と変えられイレヴンと蔑まれても本質は意外と変わらないものだと藤堂は無為に想った。朝比奈は見た目にもはっきり判るほどに喜んで藤堂の手を引いた。
畦道を少し歩いて鬱蒼とした雑木林へ入る。踝まで丈を伸ばした草の露が浴衣の裾を濡らす。朝比奈は浴衣の汚れも厭わずに歩き続け、藤堂もそれに従った。藤堂は元より寡黙な性質だし、朝比奈もそれは承知しているので二人の間に言葉は少なかった。朝比奈が不意に止まった。木々の茂りもそこで途切れ、抉ったようにそこに小さな水溜りがあった。池というには小さすぎる大きさだ。辺りが湿地なのか水面の煌めきがそこかしこに見られたが深みがあるのはごく小さな箇所だけだ。朝比奈はそこを指差した。蛍がちろちろと狐火のように燃える。
「朝比奈?」
「藤堂さん、見て。湧き水なんです。でもあそこだけ、ほら」
朝比奈の指差す先に目を凝らす。
月がぽつんと落ちていた。湧水のそこだけぽっかりと月を映しているのだ。揺らめく水面に抉れた月が映っていた。朝比奈が一歩踏み出すとジワリと水が湧く。沼地なのか湿地なのか夜の所為か区別がつかない。朝比奈の暗緑色の髪がほろほろと月明かりをこぼす。一見すると昼日中でも黒髪と間違えるほど黒色の強い色合いだ。ただしよく目を凝らせば確かに深緑の艶が窺える色合いの髪と瞳をしていた。月光で白い朝比奈の皮膚が蒼白いような輝きを帯びる。真珠が照るのと似ていると不意に想った。どこか人造的でありながら天然もの。興奮気味な所為か頬や目元の紅さが目を引く。白い皮膚と暗緑色の髪と瞳がよく映える山藍摺りの浴衣だ。帯は黒色でまとめている。紋様のような模様が薄地であしらわれて朝比奈が腕をひらめかせるたびに月明かりで照った。
「湧き水なら、飲めるか」
藤堂は戯れのように言うと裾を抑えてしゃがみこみ、水を手の平へすくって飲んだ。
朝比奈は茫然とその様に見惚れた。足元がずぶずぶと嵌まっていくのはまさに今の自分の状態だ、と自嘲気味に想った。藤堂は日に焼けた褐色に近い肌の色をしている。それでいてその体躯は十分な筋力とバネを備え、暑苦しいような見苦しさはない。その体を包む浴衣は藍の単衣で少し掠れたり透けて見えるあたり麻だろう。夏の季節感をきちんと考えた選択に藤堂の聡明さが窺える。濃紺の角帯には白藍の線が走って同系色で間延びしたのを引き締める。すくった水の飲みきれずにこぼれた雫が藤堂の顎や喉を伝う。水晶のようなそれはほろほろと水面へ還る。皮膚の色の所為か赤面しても判りにくい面が藤堂にはある。それでいて時折ちろりと覗く舌先は驚くほどの紅さで朝比奈は目をそらさざるを得ない状況になることもあった。藤堂に女性的な要素は何もない。むしろ男っぽい部類に入るだろう。その体は敏捷性だけではなく力強さも窺わせる。
「私もそちらへ行こう」
喉を濡らす雫を無造作に拭って藤堂は浴衣の裾を膝くらいまで持ち上げた。女性のような淑やかさはないが無粋でもない。あくまでも自然な動作だった。朝比奈はその時になって初めて浴衣の裾を浸していたことに気がついた。
「私の方が沈むな。おまえより目方があるからな」
藤堂は戯れるように言うと足踏みした。水がパシャパシャ跳ねる。それを子供のように喜んでいた。
「月の中にいる」
「え」
見惚れていた朝比奈は呆けた返事をしたが藤堂は返事など期待していなかったかのように続けた。
「私たちは月の中にいるな。蜜色の飲み物のようだ。甘い水もあながち嘘ではないな」
月は灰白とも練色とも言えない色合いで、透明な湧水と相まって蜜色になっていた。口に含めば甘味が期待できるような色合いだ。藤堂は長い脚で水面を揺らしては妖艶に笑んだ。蛍がちろちろと飛んだ。長い脛と連動して筋肉や皮膚が動くのが判る。藤堂の体は骨格や筋肉のありかがたどれそうなほど皮膚が薄い。その所為で些細なことで出血を起こすくせに当人は無頓着だ。ただヤワなだけだと笑って受け付けない。茂みを歩いてきた足の汚れがこの水溜りで綺麗に落ちた。
「月の中ですか。俺は藤堂さんと二人ならどこだっていいですけど」
「月光か。…昔一度だけだが、日光と月光の成分は何か違うのだろうかと思ったことがある。どちらも太陽の光でありながら夜の月光は月という反射を介する」
藤堂は月光を浴びようかというほどに両手を虚空へ差し伸べた。落ちた浴衣の裾が水気を吸って藍色から濃紺へと色を変える。そのグラデーションは藤堂の肌に映えた。乱れた裾から覗く藤堂の長い脚は月光の下で美しく輝いた。意識していないものほどそれは美しく妖艶だ。藤堂は自身の色香など気にも留めていないだろう。だからこそ惹かれる。襟から覗く鎖骨やそこから伸びる首は男性的だが案外細く骨のありかがたどれそうだ。喉仏がくっきり浮かび藤堂の性別を明らかにする。蛍の蛍光色が藍色を照らす。ずるりと足を抜いた際に藤堂は裸足だった。藤堂が目をパチクリさせて辺りを足でかき回すが要領を得ない。しばらく水を濁らせるようにかき回していたが諦めたかのように肩をすくめた。
「まずいかな。下駄を失くした」
まずいと言いながら当人は平然としている。この調子なら平気な顔をして裸足で帰宅しかねない。朝比奈が袖を抑えて藤堂の足元を探ったが柔らかな水底をかくばかりで一向に下駄の硬い感触がない。
「いい、朝比奈。なければもう片方を脱いで帰るだけだ」
「藤堂さん、怪我でもしたらどうするんですか」
藤堂をここへ誘ったのは朝比奈だ。その責任を感じて朝比奈は下駄の捜索に熱心になった。だが藤堂自身は大したことではないと思っているらしく熱も入らない。
「お前こそ履き物はどうした。お前までなくしたとは言わないだろうな」
朝比奈はその時になって皮膚へ直接触れる水や水底の感触に思い至った。下駄は疾うになくしている。
「…失くしましたね。ほら、ない」
朝比奈がため息混じりに片足を上げて泥にまみれた足をさらせば藤堂が体を折って笑った。
「お互い様だな。朝比奈、捜索はしなくていい。片方だけなら捨てて帰る」
藤堂はこともなげにいう。藤堂はもともとそういう性質だ。大雑把というか支障のない些事にはこだわらない。
「でも」
「汚れて帰って文句をいう家族も私にはないし、気にすることはない」
藤堂はあっさりとそういうと水溜りの中でターンした。濡れた裾がひらめいて雫を散らし、長い脚が垣間見える。貝の口に結ばれた帯が着物の乱れを止める。短く刈りあげた襟足はうなじもあらわだ。頸骨のありかが判りそうな皮膚の薄さに朝比奈はしらずに生唾を飲んだ。鳶色の髪がこげ茶の色合いを呈している。灰蒼の瞳は月光の煌めきを吸って灰白に煌めいた。涙で潤んだようなそれに他意などないと判っていても誘惑される。勝手に付け込んでいると判りながら藤堂はそれすら許してしまい度量の広さが災いする。朝比奈は浴衣を放り出して藤堂へぶつかるように抱きついた。互いの裾が重たく湿る。皮膚へ張り付くそれは不快だが上体は乾いており通常と何ら変わりはない。
「あなたの好意に付け込んでるって判ってるのに…ごめんなさい。でも、オレはあなた、が」
朝比奈は皆まで言う前に顔を向けた藤堂と口付けた。触れ合う唇の熱っぽさに藤堂は夏風邪をひきそうだと思った。
「人に付け込めるのも、技量のうちだろう」
藤堂は優しく受け入れる。その優しさが誰に向くものなのか朝比奈は知っている。きっと常々チビと呼んで張り合うスザクが同じことを言っても、藤堂は同じ返事をするだろう。スザクはあれでいて早熟で、すでに藤堂への感情が劣情であることを認識しているのが行動の端々に窺えた。そのスザクの魔の手から藤堂を守ってきたのが朝比奈の劣情だ。敵は少ないに限る。認識しておかなければどんな痛手を負うか想像もできない。
「藤堂さんって、時々本当の忍耐を強いますよね」
「どういう意味だ」
「いいえ別に。どうだっていいんです、そんなこと」
朝比奈の細い指先が藤堂の頤を捕らえた。そのまま口付ける。藤堂は逃げもせずそれを受けた。二人の浴衣の裾は水気を吸いきって重く水底へ垂れた。色合いに濃さを加えたそのグラデーションは冷たく温く、皮膚へ張り付いた。肌へひたりと張り付くその感触を嫌って藤堂は裾を払う。反対に朝比奈はすがりつくように藤堂にくっついた。
「ごめんなさい、好きです。オレ、あなたが好きだ。ずっと見ないふりしてたけど無理だった。オレはあなたが好きだ、きっと世界の誰よりもずっとずっと。オレはきっとオレよりあなたの方が好きなんだ」
藤堂の返事を殺すために朝比奈は再度口付け、藤堂もそれに甘んじた。
「自分より他人を好きになれるのは美徳だな」
藤堂の戯れのような言葉に救われたような気がして朝比奈が笑った。泣き笑いのようなそれに藤堂は鷹揚に微笑して返した。
「狡い人だ。返事になってない」
藤堂が困ったように笑う。その顔までもがたまらなく好きだった。
水溜りの中央で月に照らされて二人は抱き合った。それだけでいいような気がした。それだけがいいような気がした。融けあう影を別つ者は誰もいなかった。二人はどちらからともなく唇を重ねた。蛍の瞬きは瞬きに似ていると朝比奈は思った。
《了》