ページごとに見せる違う顔
どうしても興味がわくのです
98:絵本を開いて
なんの作戦もなくただ搭乗機の微調整を終えてしまえば眠りにつくまでは少しの自由時間になる。整備スタッフたちの怒鳴り声でのやり取りや器官を接着させたり嵌めこんだりと言った轟音とを背に刹那は更衣室へ戻った。時計を見れば夜半と言われる時間帯だ。せっかく与えられた自由時間だ。武力介入が主な行動原理である彼らの自由時間は驚くほど少ない。出撃が連日に及ぶのも珍しくないし、同じガンダムという戦闘機の操舵者であるガンダムマイスター同士の接触も少なかった。それでいてチームを組めば難なくこなすのだからそれぞれが一流の腕前だということだろう。
刹那は着替えを手早く終えるとスタッフやマイスターが何かとたむろす食堂へ顔を出した。辺りを見て回るがロックオンがいない。ロックオンはガンダム搭乗者の中では年長で皆をまとめるような役割を自然と担っていた。彼の得意が遠距離からの狙撃であることからも前線に飛び出していくより後方援護の方が多い。それでも敏捷性は悪くなく、時々によって役割を変える万能選手でもある。生来面倒見がいいのか、ロックオンは操舵室に詰めるオペレーターの女性陣の人望もある。
「ロックオンは、どこだ」
湯気の立つ紙コップから珈琲を飲んでいたアレルヤが首を傾げた。彼の顔の半分を前髪が覆っている。近くにいたティエリアにも訊いたが彼は興味深そうに眼鏡の奥の瞳を煌めかせて刹那を見ただけで、肩をすくめて見せた。立ち去ろうとする刹那をティエリアが呼びとめた。
「彼に何の用だ」
「お前に関係あるのか」
「ならいい」
意味を含んだ物言いに刹那は不満げな顔をしてティエリアのもとへ戻った。ティエリアの方は平然として眼鏡にかかった前髪を気障に払いのけていた。ティエリアは目測を誤れば女性にも見える顔つきをしている。肩のあたりでバッサリ切りそろえられた髪形の所為もあるだろう。それでいて彼の評価は見かけほど甘くなく、むしろ辛い傾向にある。失態を犯せば容赦なく攻め立て上層部にも進言する。
「ならいいって言うのはなんだ。何を隠している」
刹那は年頃の割に大人びた不愛想な言葉遣いだ。彼は幼いころ少年兵として内戦やゲリラ活動を経験しており、銃器の扱いもその時覚えた。
「隠してないさ。君が行ったって邪魔になるだけだろうと思ったから言わなかっただけで。気になるなら行けばいい。けど邪魔にならないだけの覚悟と振る舞いで行った方がいい」
「御託はたくさんだ。俺が知りたいのは要点のみでいい」
「…倉庫にいると思う。整理や手伝いに人手が足りないというのを引き受けていたから」
刹那は黙って踵を返して食堂を出た。それをティエリアは意味ありげに見送ったがすぐにフンと鼻で笑うと目蓋を閉じて壁へ寄りかかった。
二つ三つの倉庫で空振りしてから刹那はロックオンを見つけた。倉庫の整理はまだ中途らしく、未整理と整理が同居していた。その壁際でロックオンは扉へ背を向けて座り込んでいた。倉庫には必要最低限の明かりで構わないという方針らしく部屋は薄暗い。
「ロックオン」
刹那が声をかければくるりと顔を向ける。退紅の髪と対照的な海藍の瞳。肌は驚くほど白く、常に手袋をはめていた。今は座っている所為で彼が上目遣いだが、立ち上がればロックオンの方が背丈がある。顔立ちにもこれといった欠点もなく、いわゆる優男の風体だ。毛先に癖のある髪を少し長めに切っている。ピアスなどの飾りもない綺麗な耳だ。立ち上がればすらりとした長身と長い脚が拝める。
「刹那か。こっち来いよ」
悪戯っぽく笑ってロックオンが手招いた。ロックオンは人見知りや物怖じをしない。誰とでも会話するし関係を成り立たせる。よほどの暴挙でも働かない限り彼に拒否される人はいないだろう。それほどに受け入れる度量もある男だ。刹那は言われるままに腰を下ろしているロックオンのもとへしゃがんだ。
彼が膝の上に広げているのは絵本と写真集を折衷したような冊子だ。広大に広がる景色も連ねた言の葉もありふれたもので子供向けのそれがこんなところにあるのが逆に不思議だ。ロックオンはそれを熱心に眺めていた。海藍の瞳が楽しげに煌めいている。
「好きなのか」
「え?」
刹那は苛立たしげに繰り返した。
「こう言うものが好きなのか、と訊いてる」
「嫌いじゃあないさ。ガキの頃よく眺めてたなって感傷だよ。こんな場所がらだ、あるのが不思議だろう。だから珍しく感傷に浸っているだけだ」
刹那の真意を見抜きながら肝要なところはぼかして答える。ロックオンの言葉から彼の過去を推測するのは難しかった。元よりマイスター四人全員が訳ありだ。刹那も内戦地帯の少年兵であった過去など話したこともない。
「深海の黒さと宇宙の暗さは似てるけど違うよな」
ちょうど海の写真か場面だったのか、ページが蒼い。黒褐色のロックオンの手袋の先がそこから融けていきそうな錯覚に刹那は頭がくらくらした。
「あぁ、お前、何か用があったんじゃないのか? オレのこと探したんだろ?」
ロックオンはぱたりと絵本を閉じると刹那の方を見た。その隙をついて刹那は唇を重ねた。ロックオンの目が見開かれていく。まさか初めてでもあるまいし、と刹那はロックオンのそんな油断を微笑ましく眺めた。紅い唇をぺろりと舐めてから離れる。ロックオンが茫然と刹那を見ていた。
「絵本は交渉に似てるな」
「はぁ? どこがだよ?」
よほどの衝撃だったのか、問い返すロックオンの声が裏返った。意外な高音に刹那が苦笑した。お互いに声変わりを終えた体だ。少年のような驚きようは微笑ましく、鉄面皮と揶揄される刹那の威嚇的な表情も緩んだ。
「ページを開く楽しみがあるのが似てると言ったんだ。体を拓くのも同じだろう」
「…年頃ってのは露骨だな。もっと薄皮で包めよ。正直だからって良い目を見るとは限らないぜ」
刹那がムッと膨れた。いつもの人を威嚇するような表情に戻ってしまい、ロックオンはけらけらと笑った。
「猫が怒ったみたいだな、お前」
ロックオンが刹那の髪形を揶揄する。刹那の黒髪は短く切られているが何故か耳のあたりだけが元気よく跳ねあがっているのだ。よく猫耳だと揶揄されるたびに刹那は言った人間をぶちのめしてきた。だがロックオンだけは何の他意も感じさせずに無垢な子供のように見たままを口にする。だから叩きのめすのを躊躇したのがまずかった。ロックオンは刹那の限度の線引きをしたらしく深追いはしないが時折こうして揶揄してくる。
「俺が猫ならおまえだって猫だ。こんな猫っ毛をして」
さらりと退紅色の癖っ毛が刹那の指先へ絡んだ。柔らかく線の細いそれは長くのばして結っても重みが出ないだろう。ロックオンは耳がくすぐったいと言って身をよじるように密やかに笑った。そんな何気ない妖艶さがロックオンの雰囲気に潜んでいるのを刹那は気付いている。普段はむしろ軽薄で女性関係など奔放そうなのに実質は案外古風なところがある。交渉も相手の了承なしにはしないだろう。相手が納得し、了承してから始める性質だ。見た目と正反対なそんな気質は彼に不利なのではないかと刹那は常々思っていた。
「どうした、ネコ」
応える前に唇が重なった。熟れた果実のように程よい柔らかさのある紅い唇の感触がリアルに残った。若輩にありがちな瑞々しさはないが逆に熟れて甘味を増した果実のようだ。
「食べ頃だ」
ロックオンは平然と口付けを終えると整理を再開した。刹那だけがぼんやりとそれを見ている。唇に指先を滑らせればまだロックオンの感触が残っていた。
「お前ってさ、アジア系だろう」
「中東だ」
「どっちにしろ欧米圏じゃないだろう。キス一つでそこまで動揺するあたりな、慣れてないって感じだし。それでいて、そっちから唐突にキスしてくるんだから油断がならない」
重いものでも持ち上げたのか、声の力加減がおかしな感じだ。どさり、と箱を重ねておくとロックオンが振り返った。
「中東も場所によってはアジアだろう。お前はそっち系だよ。皮膚や髪色や瞳がな。そんななりだ」
「ならお前はどうなんだ。白い肌に碧色の瞳となれば白人種だろう」
「碧色ってほど綺麗な色じゃないぜ。中国あたりの奴に一度言われたよ、海藍だってな。海の色だそうだ。綺麗な緑色をしてるわけじゃなし、少し黒味があるんだよ」
ロックオンは部屋を見渡して肩をすくめたあとで意味ありげに刹那を見た。
「お前、オレと交渉持ちたいか」
「お前こそ露骨だな」
「持ちたかったら手伝えよ。ここの片づけが終ったあとで相手してやるから。どうせ体を拓くのが好きなんだろう、絵本見てそう例えるくらいだからな」
見透かしたように交渉を持ち出してくるロックオンの様子に刹那は嘆息してから立ち上がった。やはりまだ背丈は断然ロックオンの方がある。それが少し悔しかった。
「どっちが未整理の箱なんだ」
「上等上等。手伝ってくれて嬉しいぜ」
ロックオンが浮かれたように話しながら積まれた箱を指し示す。一人でこなすには分を過ぎている。無謀なロックオンの安請け合いに刹那はため息をついた。
「大丈夫だって、働かせた分は奉仕してやるさ」
「…期待する」
ちろりと覗く紅い舌先に目がくらむのを感じながら刹那は箱を開けて中身のファイルや書類の束を検分し始めた。
《了》