それは、俺の罪
97:裏路地のスリープウォーカー
時折何かから逃れたいような捕まりたいような衝動に駆られる。それを解消するためにスザクが選んだのは夜半の路地裏徘徊だった。時折ゼロの格好のまま飛び出していくのを警備係は意外なほどの柔軟さで見逃した。その日もただの仮装の一種とみられて揶揄や挑発を受け流しながら歩くスザクの前にそれは現れた。かつて身を焦がすほどに想いを寄せ、囚われの身となった体は幾度となく抱いた。夜着なのだろう単衣を乱して茫洋と歩いている。髪や身なりの乱れは彼が通常の状態にないことを示していた。スザクは彼ほど厳しく自身を律する男を知らない。
「藤堂鏡志朗!」
鋭く誰何する声はヴォイスチェンジャーで機械音声に変わる。だが彼はそれを認識したのか歩みを止めてスザクの方を見た。
駆け寄るスザクに藤堂はぼんやりとした反応しかしない。鳶色の髪が乱れてちらちらと額にかかっている。鋭く澄んだ灰蒼の瞳は今は奇妙な濁りを見せていた。
「ぜ、ろ」
藤堂の言葉にスザクはようやく自身の格好を思い出した。枢木スザクは公的には死んだ人間であり今のスザクはルルーシュという名であった彼の後釜なのだ。ゼロというその記号をルルーシュはスザクへと受け渡し死んだ。スザクは精一杯それっぽく振る舞った。藤堂はスザクとゼロであったルルーシュと、双方と長期間行動を共にしており油断すれば見抜かれる恐れもあった。
「どうした、藤堂。こんな時間に珍しいことだ。ずいぶんな格好をしている」
藤堂の反応がない。見抜かれたのかと一瞬疑念を抱いたが杞憂だったらしく藤堂は唇をうつろに震わせた。
「…何度か乱暴されそうに。私などのどこが、いいのか…」
「それはそれは。ならばさっさと寝床へ戻ればいいだろう」
事実藤堂自身は己の魅力に恐ろしいほど気づいていない。焼けた皮膚も鳶色の髪も灰蒼の瞳も。軍属経験も長い藤堂の体躯は引き締まり筋力もあるが、ある種の選手のような過度の見苦しさはなない。腰など骨の位置がたどれようかという細さで見るものを魅惑する。乱れた単衣から胸板や腹が覗いた。きわどい位置まで乱されたそれが藤堂がどんな目にあったかを示していた。スザクはさりげない風に藤堂の身なりを直してやる。スザク自身、日本武道に身を置いていた時期があり着物に馴染みがある。それは藤堂も同様のはずなのだが、今の彼はぼんやりとスザクの動作を見ているだけだ。その眼差しが他人事のようにそれをとらえている色を帯びている。まるで自身と関係のない場所からそれを見ているかのようだ。
「…早く戻った方がいい」
濁った灰蒼の目が時折眠たそうに閉じられる。スザクはその時になって初めて夢遊病に考えが至った。今の藤堂の反応の鈍さはそうとしか思えなかった。普段なら打てば響く男だ。反応も素早く的確。久しぶりに再会した時ですらそれは変わらなかったのだ。
「寝床で、眠れ。それがいい」
藤堂が嫌がるように頭をふった。手を引こうとするのを頑強に拒む。
「藤堂」
苛立つスザクに藤堂の灰蒼の目は無機的な冷たさを見せた。涙で潤んだように煌めきながら光を拒む瞳。普段の澄んだ様子はうかがえず白濁したかのように濁っている。
「ダメだ、戻れ、ない」
「藤堂」
「しょうごが、いない」
刹那スザクは悟った。藤堂は朝比奈を探しているのだ。
資料を見た際、朝比奈はスザクが生きろというギアスにかかっていた時の初弾のフレイヤで消失が確認されていた。藤堂自身もそれを知っているはずだ。何より藤堂はあの場にいたのだ。味方のロストを見逃すような間抜けではない。
「――あさひ、なが…?」
スザクの目が仮面の奥で見開かれていく。ルルーシュの言葉がよみがえった。
それが、お前の、罰
「朝比奈省悟だ。彼が、私の部屋へ来ないからこうして探して。いつも来ていたから、理由だけで、も」
藤堂は無垢に言葉を紡ぐ。その糸はスザクの体を縛り引き千切る。カタカタとスザクの指先が震えた。藤堂は皮膚に感じるその震えに小首をかしげながら他人事のような目でそれを見た。感覚と意識が連動していないのだ。不思議そうにゼロの格好をしたスザクを見る。
「――っは、これ、が? 俺への、罰?」
スザクが吐き出した言葉は闇に呑まれてその重苦しさが喉から体内へ侵入した。黒々とした何かがスザクの胸を重くさせる。藤堂はゼロの仮面に映る自身を見つめている。スザクは見えないと知りながら泣きだしそうになるのを必死に押し殺した。
藤堂は黒の騎士団に属している。何事かの異変があれば彼らが気付くだろう。ということはこの夢遊病は最近になって発したと考えられる。朝比奈の死とルルーシュの死と、ゼロの再来。度重なるそれらは藤堂本人すら知らぬうちに彼の体を蝕んだ。スザクの碧色の目が濡れたかと思うと端々から雫となってあふれ出た。
――あぁ、俺は愛しいこの人の心を殺してしまった
「…とう、どう。朝比奈は…彼、は」
「急に来なくなった。いつも来ていたからどうしたのだろうと思ったんだ。何か気に障る事でも、したかと」
夜毎に情を交わすほどに結びあっていた片われを俺は殺した。無邪気にあたりを探そうと視線を巡らせる藤堂の瞳には何も映ってなどいないのだ。
「藤堂!」
スザクは叫ぶと慟哭した。藤堂はぼんやりとゼロであるスザクを見つめてくる。
爪を立ててすがりついてくるまだ幼い体を受け止めてくれる優しさは健在で、それが余計にスザクを泣かせた。
「ゼロ、朝比奈の探索は私だけでいい。私用な事だし、君の手を煩わせることもない」
「あなた、は…あなたは――」
仮面の奥でスザクは泣いた。ルルーシュが罰だと言った意味を初めて実感した。己が放ったそれの破壊力は人の心すら蝕んだ。
「あ、あぁああ、あぁぁ――罰、だ! 俺は、お、れは…!」
「君は戻ればいい。朝比奈の探索は私だけで済ませるし」
藤堂はぼんやりと呟いた。スザクのことなど認識していない証拠だ。彼の自意識は深い眠りの中にあり、無意識下が朝比奈を求め彷徨う。
「藤堂さん!」
スザクは昔のままの呼び名で呼んだ。藤堂は痛いような目をして珍しげにゼロを見た。
「珍しい、呼び名だ…」
刹那、頭痛でもするかのように頭を抱えた。
「お願いです、しっかりしてください!」
「ゼロ、君は朝比奈の居場所を」
そう問うた藤堂の灰蒼の瞳は涙に濡れていてスザクはその碧色の目を潤ませた。藤堂は無意識下でこんなにも朝比奈を求めているのかと思うとスザクはいない彼が疎ましく、妬ましかった。ルルーシュはきっとこれを知っていた。だからこそ彼はきっと。蝕まれた人の心すら。
スザクは藤堂の体をかき抱いた。嵌められた仮面の奥でスザクは泣いていた。隠そうともせず涙し、嗚咽をこらえた。その不規則な震えが藤堂の体に伝わる。それは藤堂の脳裏に警鐘を鳴らした。思い出しては、いけないと。
「ゼ、ロ?」
藤堂は戸惑ったようにスザクの肩を抱いた。スザクは自身と認識されていない抱擁すら飢えていたかのように飛びついた。藤堂の指先や体温のありようがありありと判る。抱き締めた体はこんなにもか細いものだったろうか。
「とう、どう…」
スザクの泣き声の震えをヴォイスチェンジャーはかき消した。そう呼び捨てられるほどの親密さを求めていたあの時からあなたは。暗緑色の後ろ姿が消えては浮かぶ。髪形や眼鏡やその眼差しや。俺はそれに勝てずにいるのだ。そんなことを考える浅ましさや慕情を感じる程度に俺はまだ生きている。
「ゼロ?」
どこか虚ろでありながら蠱惑的な灰蒼の瞳がゼロを映す。
「しょう、ごは? 省悟…」
探そうとするその手をスザクは引き留めた。藤堂は不思議そうにそれを見ている。歩けないのが不思議であるかのようだ。意識は疾うに先へ行っている。スザクは再度殺人者になる覚悟を決めた。愛しい人の心を俺はきっとまた殺すだろう。それは世界に朝がきて日が暮れるかのように当たり前に。そんな風に俺は愛しい人の心を殺す。
「藤堂。朝比奈は、死んだだろう」
刹那、藤堂の瞳がちかちかと虹彩を収縮させた。灰蒼の瞳に光が宿っては消える。それを繰り返した。
「そうだろう? だから来ないだろう、お前の所へは? それ以外に理由があるとでも」
あぁ、ごめんなさい藤堂さん。俺はあなたがこうして彷徨うのも朝比奈を求めるのも許せずにいるんだ。あなたにはゼロの仮面越しでもいいから俺を見てほしいんだ。枢木スザクは死んだかもしれない。けれどあなたを想う妄執の塊である俺は生きているんだ。だからお願いだ、俺を見てください。それがあなたの心を殺すことになっても。俺は俺のために罪を償い贖いながらもがき生きていく。それに付き合ってください。それはきっと数多の人を屠ってきた俺たちの罪。ルルーシュは言っていたでしょう、撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ、と。あなたはきっと誰よりもそれを理解していたのだろうけれど、感情がそれを赦さないのですね。だからお願いです、俺と一緒に地獄を見てください。
「ほら、藤堂、思い出せ。朝比奈の機体は――」
「――ッ、うぅ…」
「枢木スザクの放ったフレイヤによってロストしたままだろう?」
「う、ぁあぁあぁ――…!」
藤堂が頭を抱える指先が皮膚を裂いた。額やこめかみのあたりに血がにじむ。ずるり、と力の抜けた体躯をスザクが受け止めた。まだ発達を見せそうな過渡期にある体が藤堂を抱きとめた。ぎちぎちと不穏な音を立てていた爪先を見れば血がにじんでいた。皮膚を裂いた爪先すら苛むほどの痛みを伴う拒否。それでも藤堂の灰蒼の瞳は理知的なきらめきを取り戻した。
「――ゼ、ロ? ここは」
ぽとぽとと藤堂は泣いた。藤堂自身は何故泣いているのか判らないと言った風にあふれる涙を茫然と見ていた。
「お前は朝比奈を求めるのだな」
その言葉に藤堂の顔が泣きだしそうに歪んだ。苦しげなそれは苦痛をこらえるように痛むように眉を寄せ唇を引き結んだ。眦から溢れる涙は水晶のごとく美しく煌めいた。
「朝比奈は――死んだ」
「判っているならいいさ。それを徹底しろよ、藤堂」
ゼロになったスザクはこんなにも冷淡な言葉を吐けるのだと思い知らされた。
「朝比奈は、死んでる」
スザクはそうと知りながら相手に毒を吐く。その優越と快感に浸りながら浅ましさに身を焦がした。藤堂はそれすら見抜いたような眼差しでスザクを見た。スザクの神経がざわざわと騒ぎ出す。皮膚の上を直接這うような戦慄。道場で相対した時のような殺意と戦闘意。寒気すらするそれを心地よいと感じたのはいつからだったか。藤堂がそれほどまでに対等に見てくれるのが嬉しかった。
「省悟は――朝比奈は、死んで」
「そうだ藤堂。忘れるな」
スザクは泣きながら哂った。
――藤堂が朝比奈を求めて彷徨うなら俺は藤堂を求めて彷徨うまでだ
スザクは仮面の奥で呵々大笑した。その仕草が端々にあらわれたのか藤堂が怪訝そうだ。そうだ、枢木スザクは死んだ。朝比奈省悟も死んだ。それだけの、ことだ。あぁ、それだけ、の。
「君は何故泣くんだ」
藤堂の問いにスザクは戦慄した。潤んだ灰蒼の瞳にすべて見抜かれそれでいてなおスザクは仮面をかぶる。それが彼に出来る精一杯だ。亡くした友との誓い。俺への罰。聡明な藤堂はすべてを知ったような顔をして。あぁ、さっきまで何も知らぬ凡庸な男であったのに。スザクは懐かしい視線の鋭さに目を潤ませた。藤堂をここまで狂わせる朝比奈が心底憎く――妬ましかった。
ゼロとなったスザクは仮面の奥で口の端をつり上げて笑った。
《了》