表裏一体の、それ
96:口笛禁止
道場に来た彼は反抗的で模範生とはいえなかった。道場にかかっている書や毎日綺麗に磨く床や硝子戸を検分して当然だという顔で傲然と振る舞った。年はまだ若い。だが反抗期と言うには年長だ。暗緑色の髪を行儀よく切り揃えていて彼のこだわりが見えた。髪を理髪店ではなく美容院で切らせるような、そんな差異だ。丸いフレームの眼鏡が冗談なのか本気なのか藤堂には判じかねた。本気でそれを選んでいるなら個人趣味に口を出す主義ではない藤堂は黙るしかないし、冗談なら突っ込むべきなのかと本気で悩んで固まった。
「あんたが、ここで一番強いやつ?」
「お前、先生に失礼だろ! 名前くらい名乗れ、しつけがなってないな」
藤堂を慕うスザクがさっそく噛みついた。スザクは枢木ゲンブの一人息子で彼自身も聡明だ。才もあるし呑みこみも早く将来が期待できる。そのスザクは藤堂を慕い道場にも熱心に通っていた。
「お前こそしつけのなってないガキだな。年長者への口の利き方、教えてやろうか。…オレは朝比奈。朝比奈省悟だ。あんたは? センセイ」
朝比奈は顎をしゃくって藤堂を示した。スザクが今にも飛びかかりそうになるのを抑えて藤堂が一歩前に出た。
「藤堂だ。藤堂鏡志朗という」
「はん、名前までたいそうなことで。オレ、自分より弱い奴に従う気はないから。それに」
下から見上げる暗緑色の目は明らかに藤堂を馬鹿にしていた。
「オレ、あんたみたいなやつ、大ッ嫌いだから」
藤堂は嘆息して道場の出入り口を指し示した。藤堂自身は諍いを嫌う性質で無駄な小競り合いもできる限り避けようとする傾向がある。それはどこか猫に似ている。彼らが実際に取っ組みあって傷つけあうのは限度を超えたときのみだ。
「ならばここに用はないだろう。お帰り願おう」
「へぇ、組み手もなしでオレより弱いこと認めンの? 案外骨がないな」
「藤堂先生を馬鹿にするな! お前なんか一撃だよ、相手するだけ無駄だから帰れって言ってるんだ」
「スザクくん」
藤堂の制止を振り切ってスザクは胸を張った。朝比奈の細い眉がピクンと跳ねる。
「へぇーチビ、なかなか言うじゃないか。それならお相手願おうか? オレだってただの眼鏡と思われたくないしね。もっとも、そちらのセンセイにオレとやりあう気概があればの話だけど、どうする?」
どうあっても諍いは避けようがなく、藤堂は躊躇しながらも試合を了承した。
朝比奈と体格の似た門下生から道着を借りて着替えた朝比奈と向かい合う。向かい合った刹那から藤堂の頭は戦闘モードへ移行する。体格から見るに力押しではなく敏捷性と機転の利き具合で相手を倒すタイプか。そう言うタイプは案外打ち倒すのに時間がかかる。敏捷性に優れているため打撃が標的を捕らえにくく、力押しタイプにありがちな自信過剰がない。だがこれまでの彼の言動も見るに打ち倒された経験は少なそうだ。そう言うタイプは致命的なダメージで戦闘不能になる傾向がある。どちらにしろ全力を尽くすまで、と決めた灰蒼の目が朝比奈を映しだした。
「なんだよ、顔が違うぜ…あんた、とんだ羊の皮をかぶった狼だぜ」
朝比奈の背を冷汗が伝い落ちた。視線だけでこれほどまでに動きを制限されるなどない経験だった。恐怖。畏怖。逆らったら殺される。実戦を潜り抜けた者だけが持つ、獣の瞳。彼は食らいつけと言われれば真っ先に喉笛に食らいつくことを知っている。藤堂の体が沈む。ダンッと床を蹴る音がした。ぶわっと動く空気の流れ。殺気に肌が寒気立った。鳥肌が立つということを実感した刹那、目で追い切れない一撃が朝比奈の体躯を吹っ飛ばした。
朝比奈は藤堂に完膚なきまでに叩きのめされた。
夜半になった。掃きだし口へ座り込んで夜空を見上げる朝比奈の後ろでは年少の者たちが稽古後の掃除をしていた。箒でゴミを掃きだし、雑巾で床や硝子戸を磨く。黒光りする床や柱はこれらが長年にわたり行われてきたことを示していた。朝比奈をぶちのめした藤堂は何事もなかったかのように彼らを手伝っている。
「こっちむけよ」
スザクの不満げな声に顔を向ければ湿布を乱暴に張られた。手ひどくやられた頬は赤黒く腫れあがって尋常ではない様を呈していた。そこへスザクは乱暴に手当てを施す。
「藤堂先生を馬鹿にするからだ。あの人はすっごく強いんだから」
「そら、どーも」
スザクは朝比奈の手当てを終えると掃除をする彼らに合流した。朝比奈に向かってべぇっと舌を出す。朝比奈も張り合うようにいーっと歯を剥きだした。
「さようなら。ありがとうございましたー!」
元気のいい少年の声が何回も響き、藤堂はいちいちそれに返事をする。それを横目に朝比奈は口笛を吹いた。口笛の旋律が夜空に響く。煌めく星星すべてが己のものであるかのように思っていた幼い日を思い出した。
「やめろ。縁起が悪いだろう。夜に笛を吹くと蛇がくるぞ」
「へぇ、そんな俗信、信じてるんだ」
真顔で注意する胴着姿の藤堂に朝比奈が性質の悪い笑みを見せた。藤堂の方は至って真面目だ。
「口笛ごときで寄ってくる蛇くらい追い払えるだろ。トウドウセンセイ」
「蛇とともに来る災いまでは祓えない。お前は夜に爪を切る性質か」
「オレを馬鹿にしないでもらえる? そこまで愚鈍じゃないよ」
夜に爪を切るなという言い伝えの真意は、手元の暗い夜に爪を切るなんて愚行をする者は親の死に目に会えないという意だ。それが悟れないほど朝比奈も馬鹿ではない。
「ねぇ、言ったよね? オレ、あんたみたいなやつは大ッ嫌いだって」
「なぜ嫌いなんだ。嫌うからには理由があるのだろう? わけもなく嫌われるほど見苦しいか、私は」
藤堂は朝比奈のそばへ腰をおろした。そうすると視線の高さが同じ程度になる。それだけ脚が長いということか。朝比奈はフンと嘲笑した。
「強くってガキに慕われて? それにあぐらをかいてる奴ってのが我慢ならないね。弱者の上に立ってお山の大将気取って偉ぶる奴がオレは大ッ嫌いなんだよ!」
藤堂はクックッとこらえきれないと言った風に吹きだして肩を震わせ笑った。朝比奈ががんと殴られたように反応する。白い頬を真っ赤に染めて藤堂に抗議した。
「なんだよ! 笑うとこじゃねぇだろ?!」
「いや、すまん、そうか…く、くくっ…」
ふんと顔を背けた朝比奈の名を藤堂は呼んだ。朝比奈が振り向く。唇が重なった。
「君は正義感が強すぎる傾向があるだけだな。友人も少ないだろう、そこまで妥協しない性質なら」
見抜かれた朝比奈はぐぅと唸った。真っ当すぎて妥協しない信念の朝比奈はここへ来る前には疎まれ続けた存在だった。
「だが、私はそう言う君は嫌いじゃない」
朝比奈の目が見開かれていく。無条件の受け入れ経験は初めてだった。藤堂は凛としているがそれは他者を寄せつけない半面気を許したものにはすべてをさらす潔さがあった。心赦せる者には心の臓すら差し出すだろう潔さ。朝比奈にはできない真似だ。頑固さを気取りながら朝比奈はそこまでの素直さは得られずにいる。
「なんだよ、ホントに性質悪いよ、あんた…」
「なんだ、嫌だったのか」
藤堂はくすりと笑んだ。朝比奈はすっかり手玉に取られていた。経験も年輪もこの藤堂にかなわない。
「嫌じゃないから困ってるんだよ。これから、ここに通ってもいいかな。オレ、もっともっと強くなる。きっとあなたを超すくらいにね」
「それは、楽しみだな」
合わせへ指先を滑らせる朝比奈の動作を藤堂は許容した。嬉しげに朝比奈は口笛を吹く。行為の後も朝比奈は口笛で旋律を奏でた。
「夜の口笛は蛇を呼ぶから止めろと言っただろう」
「蛇くらい、オレが追い払ってあげますよ。藤堂さん」
呼び名が砕け始めた。藤堂は嘆息してから自身の軽挙を悔いたが、時はすでに遅かった。
「藤堂さん、オレ、きっとあなたにやられた。あなたのことがこんなにも愛しいなんて思わなかった。こんな経験無いよ。これほどまでに相手を大事に想うのも、相手にオレを想ってほしいって思うのも初めてだ。あなたがいい。このオレ、朝比奈省吾は、藤堂鏡志朗を愛し、求めます」
結婚式のような厳かな口調で朝比奈は愛をささやいた。互いに裸身で行為に及んだ後だ。清らかさなど欠片もない状況下でもそれは藤堂の根底を揺るがした。
「君の方こそ性質が悪いな」
朝比奈は腹を抱えて笑った。まだ胴まわりも細く筋肉も発達していない、意識ばかりが先行する年頃だ。年若く無謀で、それゆえ魅力的。その一途さは感情の伴わない行為に慣らされた藤堂を癒した。枢木ゲンブは欲望の発散が必要となれば藤堂の側の都合など配慮せず呼びつけ行為に及んだ。藤堂はそれに従うしかなかった。日本再建のため、この男の政治的手腕は必要だと信じ、従属を決めた、その刹那から。藤堂はすべての痛みを呑みこむすべを覚えた。痛みすら快楽へ変えて藤堂は行為に応じた。必要なのだと、そのために己が身一つ穢れるだけなら安いものだと信じて。
「泣かないで、藤堂さん」
藤堂の頬を涙が滑っていた。感情の奥底まで揺るがす交渉は藤堂の堰を決壊させた。あふれ出る感情が涙となって頬を濡らした。
「オレはあなたを信じてる…このオレをぶちのめしたんだ、そこらのやつに負けたら許さないよ。藤堂さん、強くあってくださいね。オレが目標にできるくらい強く。あなたの背中を見ていたいんだ」
「朝比奈、しょう、ご」
「そうですよ、オレの名前、覚えてくれたんですね。忘れないで。いつまでもいつまでもあなたのそばにいるから。あなたが死んでもオレが死んでも、あなたのそばにいるよ。だからオレのこと、忘れないで」
涙する藤堂の頬を包むように朝比奈の手が触れ、唇が重なった。藤堂は初めて抵抗なく同性との口付けを受けた。朝比奈になら、すべてを許せた。たとえ彼が自身の命を奪う暴挙に及んでもきっと、赦せる。
「鏡志朗さん」
触れる朝比奈の手が透けていく。白い肌は奇妙に蝋のような蒼白さで発光し、暗緑色の髪や瞳が鮮烈に色付いた。丸い道化た眼鏡。はいったヒビは誰がつけた?
「あ、さひな!」
伸ばした腕をすり抜けてその体が消えていく。にっこりと微笑して悔いなどないと言いたげに笑んだ、まま。
「待て…省悟! 待て、省悟、いくな…逝くな!」
それだけですべてが判った。消えていくその体が透けて自室の天井が透けて見えた。
「しょう、ご!」
叫んだ藤堂は自身の声で目を覚ました。寝台に横たわったまま、中空へ手を差し伸べて。朝比奈は、あの一撃で。藤堂がずるりと体を起こす。滲む視界に目元を拭えば、藤堂な眠りながら涙していたらしいことが判った。眠りながら泣くなど、十数年ぶりだ。夢に見る彼の姿は愛執を呼んだ。
「――ぁ、あ」
君の笑顔が始まりだった。ぶちのめした藤堂を朝比奈は屈託なく慕ってくれた。素直な尊敬と慕情。それらは荒んでいた藤堂を潤した。沙漠の砂に沁みとおる湧水のようにそれは消えて、なくなった。
「あさ、ひな」
藤堂の指先が自身の心臓をえぐりだそうとでもするかのように爪を立てた。この心の臓と引き換えに君が還るなら私は躊躇せずこれを差し出す。私のような死にたがりの命を引き換えに、君が還るなら。
「お前はいなくなっては、いけなかったんだ――私など、見限ればよかったのに」
君には、あぁ、輝ける未来があったのに。
「――ッぅ、うぅ…」
ぼろぼろと涙がこぼれた。藤堂の唇がわななく。吐息に震えて声が出ない。喉は震えて横隔膜と連続した痙攣をおこす。一団を率いる幹部になるほど藤堂は強くなった。だがその強さは、大切なものを守りえなかった。
「あ、あぁ――…ああ…ッ」
君さえ生きていてくれたなら。君さえ隣にいてくれたなら。その暗緑色を求めて藤堂は悪夢にうなされ涙して眠れぬ夜を幾度を過ごした。
「だ、から、だから…夜の口笛は止めろと、いったの、に」
夜の口笛は蛇とともに災いを呼ぶ。そんな俗信、知りませんよと笑った君は、あぁ、逝ってしまった。縁起が悪いから止めろと諫める藤堂に朝比奈は哂った。
「そんなことで死ぬほどオレは弱くないですから」
なのに君は。逝って、しまったじゃあないか?
「あ、あああああさひな…――しょう、ご、省悟…!」
藤堂の慟哭は天に届けとばかりに響いた。あぁ、天にいる君には届くだろうか、この泣き声が、切望が。君を求める我が慟哭は、吼え声は届くだろうか?
――あぁ自身の愚かさが招いた代償はあまりにも大きく
「しょ…ご…ぉ…」
精悍な顔がゆがみ涙する。私の愚かさゆえに君は命を落とし。連絡も取れない。君の生死は判らず絶望的だとさえ言われた時の私の衝撃を君は知るだろうか?
「お前がいなくなる理由なんて、ない――」
私の責任を取らされる形で朝比奈は逝った。藤堂の側で無自覚だっただけにそれは衝撃でしかなかった。
「すまな、い――すまない――」
藤堂はただ謝罪した。それ以外に贖いなど思いつかなかった。君を失くして初めて知った、この喪失感を。
「だから、止めろと言った、のに…」
災いを呼ぶ夜の口笛。藤堂との行為の後に耳障りのいい旋律を奏でていた朝比奈の唇。藤堂は口笛を吹いた。今度こそ自身に災いが降れとばかりに。君を亡くした災いを、呼び寄せよう。悲しい旋律が冷え込んだ夜半の空気を揺らし響いた。
《了》