あなたの重荷に、なりたくないから
89:一日の半分くらい
夜の空気は凛としていて好ましい。昼間の熱を吐き出し切った夜半は清冽で好きだった。夜半にこなすべき任務を与えられることも珍しくなく、寝不足も昼間の行動に影響しない体になっていた。その代わり一度寝いれば昏倒したかのごとく意識が消える。眠るというより意識の混濁と言った方が近いかもしれない。感覚的には気絶に近い。泥のように眠ると言えば可愛げがあるが何のことはない、寝床で気絶している感覚だ。それでも時折眠れない夜が藤堂を訪った。体は疲労して休息を欲しているのが判るのに目がさえて眠れない。焦りが緊張を高め余計に目が冴える悪循環だ。元来自制のある藤堂は寝不足で失態を演じたこともないし、眠れないなら開き直って本でも読めばよさそうなものだが、本を読みきって夜を明かしてしまってからはその手段も諦めた。
道場の床が軋む。人の気配。ぴんと張った鋼線がわずかに振動する感覚。鋭く視線を投げれば、冗談混じりに両手をあげて笑う朝比奈の姿があった。藤堂と同じように胴着を着ている。
「朝比奈?」
「藤堂さん、また眠れないんですか? 何か考えていたでしょう」
朝比奈は少年とも青年とも言い難い時期にあり、それでいて聡明だ。作戦も正しく理解し手際よくこなす。藤堂についていくと公言してはばからない。まだ年若いが早熟で敏捷性や機転もある。事実藤堂の任務を朝比奈は優れた部下としてでしゃばらず的確にこなしている。
「お前こそどうした? そんな恰好で」
藤堂が微笑して横に場所を空ければ朝比奈は軽やかに駆けより、礼を言って腰をおろした。掃きだし口であるそこは男が二人も座ればいっぱいだ。触れ合う体の冷たさに藤堂は怪訝そうに朝比奈を見た。今まで鍛錬していた藤堂と違い朝比奈の体は冷えて鎮まっている。
「藤堂さんって言う先客がいたもんで。後学のためにこっそり見学してました」
「声をかければいいだろう」
「藤堂さん、考え事してたでしょう。オレの腕でも三回、切りつけられる動きでしたよ」
指摘されて藤堂はうなった。確かに鍛錬の最中集中力を欠いた場面がなかったとは言えない。朝比奈はけらけらと笑って藤堂の指先に自身のそれを絡めた。
「ほら今だって考えてる。藤堂さんはいつだって、何か考えてますよね。今は何考えてたんですか?」
付き合いの長い朝比奈の前に隠しだては無用だ。年若いからと言って侮ればその仕返しは必ず寝床の中でされる。藤堂は朝比奈と寝床を共有するようになってから朝比奈に対しての態度を微妙に変えた。
「夜のことを考えていた」
「夜? あぁ、星空、綺麗ですよね、冬」
朝比奈はわざと本題をぼかす。藤堂が口にすることを判っている証だ。藤堂は構わずに言葉を紡いだ。決壊した堰のごとく流れは止まらない。はけ口を得てしまえばそこへたどり着くまで流れは勢いを増すばかりで止まりなどしない。
「人は人生の半分を眠って過ごすという。一日の半分、眠っている計算になる。その眠るべき夜に私は、何と言う罪を犯しているのだろうな。その過不足分をどう補え、ば」
藤堂は片膝を抱えて顔を伏せた。上官と認めた男に夜伽を命じられ応じてからどれくらいになるだろう。藤堂に訪う眠れぬ夜は夜伽の次の晩に罪の意識を伴った。前夜の媚態を思い出して自己嫌悪する。自分を師事してくれる子供たちや人々が安寧の眠りにいる時に行われる行為は激しい裏切りの情を伴った。
朝比奈の目が膝を抱えた藤堂を映す。藤堂は長身ですらりとした体躯だ。それでいて筋力もあり戦闘ではある程度の戦果を期待できるだけの能力もある。引き締まった体躯を朝比奈自身、幾度となく抱いた。けれどその藤堂の体躯を抱く人間が朝比奈だけでないことを朝比奈は気付いている。藤堂が従うと決めた以上表だった反抗はしないつもりだ。それは藤堂の軋轢を招くだけだと判らないほど馬鹿ではない。それでも、藤堂は苦悩する。子供たちには屈託なく微笑しながらその裏で藤堂は悲鳴を上げている。その悲鳴を殺すために朝比奈は藤堂を抱く。藤堂がこの腕にいる間だけでも安らいでくれれば構わなかった。
「過不足だなんてひどいなぁ。オレと、その夜を共有するくせに」
力なく落ちた藤堂の肩へ朝比奈が頬を寄せる。鍛錬で火照った藤堂の体躯は境界線をその熱で曖昧にする。うずくまった子供を抱きしめるように朝比奈は腕をまわした。
「感謝している」
ちろりと灰蒼の目が覗いた。濡れたように潤んでいるような気がして朝比奈は殊更に明るく振る舞った。ちちち、と立てた人差し指を振っておどける。道化じみた仕草が様になる見かけをしていると朝比奈は承知している。
「藤堂さんのためなら、喜んで」
藤堂が顔を伏せた。その肩が震えているような気がして朝比奈は藤堂を押し倒してやりたくなった。
「誰かに」
藤堂の声がか細い。泣きだす直前のような震えを感じて朝比奈の体を焦燥が襲う。
「誰かに時を費やしてもらうというのは最高の贅沢なのだろうな――」
藤堂は受ける打撃すら喜びとして感じようと努力していた。それはきっと藤堂を抱く男の息子が向ける真摯な眼差し。藤堂は才を見出したその男の子を可愛がっていた。藤堂は通常のようなかわいがり方はしない。甘やかすことと可愛がることの差を知っている振る舞いでもって少年に接した。少年もそれを理解し、藤堂を師事し慕っている。そんな清潔な間柄にある少年の父に抱かれることはどれほどの苦痛か。藤堂は諍いを嫌って表面化させない所為か、そのダメージは増大している。
「誰かに想ってもらうことも贅沢だと思いますけどね」
意にそまない関係を強要されてどれほど経つか。朝比奈が想いを必死の思いで打ち明けた時、藤堂は言った。私はすでに穢れた体であり君が愛する価値などない、と。朝比奈はそれでも構わないと言った。藤堂の体が誰に抱かれようと関係なかった。そんなことで揺らぐほど軽い想いではないと自負している。藤堂自身の意識がどこに属するかが問題なのだと言うと、驚いたように目を見開いてから困ったように笑んだ。
「お前には敵わないな、省悟」
藤堂に下の名を呼ばれて体の細胞すべてが歓喜に鳴動した。その時の快感を朝比奈は忘れていない。その夜から藤堂は朝比奈の相手もするようになった。
「そうだな、想ってもらったり時を費やしてもらったり――私は地獄行きだな」
震える肩は藤堂が泣いているのか笑っているのかの判断を曖昧にさせた。鳶色の髪は夜闇を吸って黒褐色に見えた。髪をかきあげるようにして頭を抱えている藤堂に言ってやりたかった。すべてを捨てたらどうですか、枢木ゲンブなんて見限ったらどうですか、と。できないと思っているから簡単に想像がつく。藤堂はそんな暴言を聞き入れたりするほど浅慮ではない。朝比奈もそうだ。荒唐無稽であるほどに想像するのは簡単だ。
「裏切っているのだろうな、私は。お前やスザクくんを――裏切って、いる…」
灰蒼の瞳だけが宝石のように煌めき、無垢な子供のそれのように潤んでいる。聡明であればあるほど、罪悪感と理想と現実の差異が体や意識を苛む。藤堂は悧巧であるが故にその差異に苦しんでいる。ただ抱かれるだけの人形となればどれほど楽になるか知れないと判っていながら、藤堂は枢木ゲンブの性欲と朝比奈の想いとに応えている。誠実なその人柄を人々は愛し求める。日本再建を求める声に藤堂は微力ながらと前置きして答える。末端にまで気を配るその繊細さが藤堂を傷つけている。
優しい人。
あぁなんて、やさしい――
朝比奈は丸い眼鏡の奥の目を眇めた。
藤堂の灰蒼が朝比奈を映す。朝比奈は一見すると黒髪がだその実暗緑色の髪と瞳をしている。よく見れば気づくそれは見るものを試すかのようだと藤堂は思った。眼鏡をかけて道化た仕草で周りを和ませる彼が藤堂に、愛していると告げた夜。藤堂はその想いに応えられる自信がなかった。関係を強要されて穢れた体で朝比奈と付き合う気はなかった。それが相手を侮辱することだと信じて疑わなかった。この強制関係はまだ長く続くと想像できた。そんな状態で朝比奈というパートナーを得ることは不義でしかないと藤堂は思った。だから告げた。穢れた体であること、愛される価値などないこと。朝比奈はそんな藤堂の杞憂のすべてを明るい笑い声と顔で消し去った。
「藤堂さんが誰を好きかが問題です。強制関係なんてオレには関係ない。藤堂さんが、誰を好きかが、問題なんですよ!」
何と言う優しさだろうか。こんな穢れた体を、誰かのものになった体を、それでも愛してくれるという。何という優しさ。その想いに清浄なる体で応えられないことが不本意でかつ罪の意識を煽った。申し訳なかった。
「藤堂さん、オレ思うんですよ。誰かを好きになるって、すべてを犠牲にできるなんて美談になるけどそれは責任の丸投げだって。だからオレは半分だけ、藤堂さんを想います。残りの半分は自己責任。そうすればほら、負担は減るでしょう。好きな人に不要な負荷を課すなんてオレは嫌なんです。だから半分。昼と夜みたいに半分だけ」
聡明な朝比奈のその考え方に藤堂が笑った。朝比奈らしいそれに藤堂が微笑する。涙で潤んだ灰蒼が楽しげにすがめられる。
「お前らしいな」
「だってそうでしょ? 誰かのためだってことは、誰かの所為だって言い訳の余地を残してる。オレはそんなふうに相手に負い目を負わせたくない。相手の負担は軽い方がいい。好きだから。好きな人には幸せであってほしい、負荷なんて負ってほしくない」
あぁその誠実さは。藤堂は同じく藤堂を慕う千葉が朝比奈を軽薄だと評したのを無意味に思い出していた。彼女は朝比奈の軽妙さをお軽いだけですと言っていたが、これでいて朝比奈は聡明な性質なのだと思わせた。相手のことを最大限思いやり、その上で行動を起こす。それを踏まえれば朝比奈の告白は相当な決意が必要だったのだろう。伝えれば、その後に責任を負うのは免れない。
「お前は、優しいな…省悟――」
目を向ければ朝比奈は思いのほか真面目な顔をしていた。藤堂は微笑して抱きよせ唇を重ねる。次第にその主導権は奪われ朝比奈の唇が藤堂のそれを吸った。
「優しくなんてないですよ、オレ。今だって、藤堂さんを無理やりねじふせたいと思ってる」
ゆとりある衣服である胴着は体の変化を容易には悟らせない。手をあてがわれてその熱さに藤堂は目を瞬かせた。朝比奈が悪戯っぽく笑う。
「ねぇ、ほら。藤堂さん、オレに弱みなんて見せたらつけ込まれますよ」
わざと猥雑な言葉を選んでいるのだと判る。朝比奈の聡明さはこれまでの付き合いで証明されている。軽薄な見かけによらず朝比奈は悧巧で周りや人々のあしらい方も知っている。油断ならない立場の人間だ。
「体術をこなす藤堂さんの姿、綺麗でした。戦場であんなふうに戦うなんて思っただけでたまらない…そんな綺麗な動き、見せないでくださいよ」
敵の血潮を浴びて戦うその雄姿はただただ美しいと。勇猛果敢であれ美しくあれ。君はそれを実現できる。
「藤堂さん…きょう、しろうさん…」
朝比奈は体を投げ出すように藤堂に抱きついた。その鎮まった体は清浄で美しい。
「鏡志朗さん…あなたは、綺麗です。穢れてなんていない。誰も穢すことなんてできないよ――」
他者の影響を絶したそれはただ孤高に美しい。他者の侵入を許さず、影響を赦さず。ただ独りあるその姿。孤高、それ故に美しい。何を犠牲にしても何を費やしても構わないと思わせる蠱惑的な。
藤堂は困ったように微笑した。灰蒼の鋭い眼差しは鳴りをひそめてすがめられる。凛とした眉は下がり困ったように朝比奈を見た。
「私はそんな清浄な存在ではない」
朝比奈は嘆息した。藤堂は自身の美しさを自覚していない。枢木ゲンブが藤堂を求める理由が判ったような気がした。藤堂の美しさは他者を完全に拒絶し、それゆえに成立している。そこに影響したいと思うのは自然の摂理か。藤堂の美しさは外見にのみ非ず、その心意気。潔癖なる日本男児のそれは今どき稀有な。希少なるそれを手中に収めたいと思うのは当たり前に思えた。
「鏡志朗さん」
朝比奈が下の名を呼んでも藤堂はとがめなかった。赦しを得た体は暴走し、歯止めが利かなくなる。道着の袷から侵入する手と腰ひもを解く指先。藤堂はそれらすべてを赦し受け入れた。けれどその行いが藤堂の体を無理矢理に拓く枢木ゲンブと同等であることを認識した朝比奈は扉口を拳で打った。意にそまない関係を強要する気は朝比奈にはない。
「真っ当じゃない。そんなこと、判ってる――」
「私だってまっとうとは言えない。お前が気にすることはない、悪夢の続きだとでも思ってくれ」
「オレは真っ当じゃないくらい藤堂さんが好きなんです!」
そのすべてを狂わすほどに君が好き。それは何と幸せなことだろうか。ただ無垢に信じてさえいればそれは最高の至福。けれど朝比奈の聡明さはそれを許さない。
「お前は、本当に優しいのだな」
傷むような藤堂の言葉。朝比奈のすべてが鳴動する。ただ勢いのままに藤堂を抱くのは可能だろう。だがそれは本意ではない。手に入れたいのは体ではなく、心と呼ばれる不確定要素を多分に含んだそれ。
「オレを、オレを好きになってくれませんか、好きになってはくれないんですか――」
幼子のようなわがままを藤堂は赦した。
「一日の半分をお前に委ねよう。そのくらいにはお前を好きになっている――愛している」
あぁそれだけで。それだけでオレは生きてゆける。涙に潤んだ暗緑色の瞳で朝比奈は藤堂に向かってにかッと笑った。藤堂もそれに笑い返す。灰蒼の瞳が自分にのみ狂っていると思えば、歪んだ優越感に浸れた。
「ありがとうございます。オレも一日の半分をあなたに捧げます」
すべてと言わない慎重さと思慮深さ。互いのそれらを了承しているやりとり。
「オレは、あなたを一日の半分だけ愛します、狂います」
藤堂は満足げに笑んだ。君がため、君を愛す、そのために。
「しょうご――」
さし伸ばされるその骨ばった手を朝比奈はとった。極限まで鍛え抜かれた体躯に無駄な贅肉などない。必要な筋肉がついて骨にくっついているだけだ。筋肉のありようをたどれば骨格が判る。整ったその造りには嘆息するばかりだ。代償を支払わずに得ているその利はそれゆえに稀有で美しい。バランスの良い骨格は藤堂の真っ正直な気質を表しているかのようだった。
「きょうし、ろ、うさん――」
口付ける唇。曖昧になる境界線に朝比奈は酔った。体など上辺だけでしかない。誰に抱かれようと藤堂の心さえ手に入ればと思う浅ましさに朝比奈は葛藤した。その葛藤すら包み込むように藤堂は応えた。その懐の広さや優しさは朝比奈を増長させた。
「あなたが、すきです」
藤堂は灰蒼の瞳を潤ませて微笑した。
《了》