そんなに、急がないで
87:早足で帰宅
「――…ッ」
四肢が重い。鉛でも引きずっているかのように手脚は重く、沼に嵌まったように空気すら絡みつく気がした。藤堂は自身の願いをかなえるためにある男への従属を決めた。従属を誓ったその日から藤堂は男の私室や私邸へ呼ばれた。連日のような呼び出しは苦痛でしかないうえに体への負荷は驚くほど大きい。そしてその行為は藤堂の肉体にとどまらず精神的にも打撃を与えていた。部下である四聖剣と称する者たちに仔細は話していない。彼らはただ、藤堂は男に気に入られて晩酌にでも付き合わされていると思っているはずだ。男のもとへ向かうときにもそこから辞するときにも藤堂は変化をきたさなかった。だがそれは藤堂が必死で取り繕った結果でしかない。
荒い呼吸に肩や胸が上下する。胸骨が押し広げられて肺に酸素が送られる、それですら億劫なほど疲労している。昼間は喜びすら感じながら通う道場が見えてきた。そこで藤堂は武術など一連の体術を少年たちに指導している。そこには男の子息であるスザクという少年も含まれる。彼の潜在能力は高く、将来を期待できる少年だ。
「まだ、道場か…」
昼間は騒がしいほどのそこも夜半ともなればしんと静まり返って寂寥感を煽る。枢木という名字を冠したそれを見ながら苦味がよみがえった。ゲンブの要求は簡潔で強引だ。彼は自身が感じる快楽にしか興味はなく、藤堂の側がどうだろうと気にかけもしない。そして藤堂はそれに応えることを強制されるのだ。望まない交渉を拒む体を無理矢理に拓いてつながるのだがら、鍵のかかった鎧戸を開くようなもので、結果が惨憺たる有様になるのは当然でもあった。それを承知しながらゲンブは藤堂にそれを強いる。
「…しょう、ご。すまない、すまな…い」
道場の壁に頬を寄せてずるずるとしゃがみこむ。いまどき珍しい土壁は昼間含んだ熱を吐き出し人肌に温む。そのぬくもりはゲンブとの交渉を喚起させて藤堂は吐き気がした。朝比奈省悟という彼は藤堂直属の部下である四聖剣の一人でありながら年若い優秀な青年だ。同じ年頃である千葉と小競り合いをしながらもうまく人付き合いをする器用さも持っている。明るく笑う顔の印象的な青年。
彼は藤堂を好いていると思いを伝えてきた。丁重にそれを辞した藤堂に朝比奈は食い下がった。藤堂はすでにそれ以前からゲンブと交渉を持っており、そんな体で好いてもらおうなどとは想っていなかった。戦場で上げる戦績の分だけ人の命を奪っている。時に人殺しと罵倒される自身には配慮など欠片もない交渉しかしないゲンブが分相応なのだと藤堂は思っていた。だから朝比奈には素直にそう告げた。その瞬間に彼は右腕をしならせて藤堂に平手打ちを命中させた。朝比奈の嫌悪に染まっているだろう眼差しが怖かった。自身が想い続けていた相手にそんな過去があれば騙されたと憤るのも当然だと藤堂は思った。だから藤堂は目を伏せたまま謝った。空気の震える気配に反射的に眼をあげると落涙する朝比奈と目があった。朝比奈は平手打ちを詫びながら泣いて言った。
なんでそんなに、悲しいこと言うんですか
藤堂には返す言葉がなかった。
「あさひな、しょうご」
藤堂は自嘲した。嘆息して壁から体を引き剥がして早足で枢木の敷地から外へ出た。気が変わったとゲンブがさらなる交渉を求めることも珍しくなく、それを避けるために藤堂は負荷を追った体に鞭打つように早足で帰路についていた。その体を奮い立たせる呪文のように藤堂は朝比奈の名を紡いだ。彼の名を紡ぐだけで、その笑い顔を想うだけで、生きていける気さえした。一方的でも良かった。一方的な方が良いと知っていた。藤堂はゲンブと知り合ってから無意識的に防御壁を張る癖がついた。ゲンブは藤堂のすべてを掌握するために何もかもを奪った。それは時に贈られたものや時に人間関係であったりそれらの破壊であったりした。無理やりに結ぶ交渉も手段の一つでしかなかった。政治的高位にいる枢木ゲンブの圧力と権威に人は簡単に屈した。藤堂は一夜明けた短時間の間に変わる態度の冷徹さを知った。前日には挨拶以上の関係を築いていたそれは破壊されていた。
藤堂は自然と身を守るすべを覚えた。期待しない。冷静でいること。動じない。藤堂の動揺や驚愕、落胆を枢木ゲンブは好み、そのためになんでも行った。だから藤堂は何事にも動じない無表情と無感動を手に入れた。だが身を守るすべであったはずのその態度は気高く凛としていると評判を呼んで藤堂は連日の夜伽をこなす羽目になった。その頃から藤堂は戦場で先陣を切って切りこんでいくようになった。いつ死んでも構うことなく、むしろそれを希みすらした。その破滅的な態度を四聖剣の面々はやんわりとたしなめた。年長でもある仙波などは年功序列があると冗談交じりに藤堂に苦言を呈するほどだった。そんな自滅を望みさえした頃合いに、朝比奈に想いを告げられた。
藤堂の視線が人影に気づいてあげられる。まだ緑の木々が萌えるほど開発の進んでいない畦道に朝比奈は待っていた。過度な洒落っ気もない簡素な私服。伸びるしなやかな腕と脚。足先がどうしたらいいか判らないと言いたげに小石を蹴っている。仄白い月明かりが朝比奈のうなじを照らす。昼間の目映さの中でさえ黒色に見える暗緑色の髪は綺麗に切りそろえられうなじもあらわだ。道化た丸い眼鏡をかけて髪と同じ微妙な色具合の瞳をもっている。
「あさひな」
立ち止まって呟いた藤堂に朝比奈が気付いた。照れくさいようなはにかんだ笑みを見せて朝比奈が藤堂のもとへ駆け寄る。
「やっと会えた。ずっと色んなところで待ってたんですけど、うまいタイミングが合わなくって。この道通ってたんですね」
「君が、何故」
朝比奈が藤堂を待つ理由などない。あの平手の一件から朝比奈は藤堂から遠のいていた。藤堂自身、それに不服を唱えるつもりもなかったし事態を進展させる気もなく、そのままにしていた。
「な、んで…」
藤堂の体を泣きだしたいような衝動が襲った。それは哀しいような嬉しいような苦しいような切ないような、あらゆるすべての感情が押し寄せた。それを表現する言葉もなく藤堂は立ち尽くした。
「君は私を軽蔑して、倦厭していたのではないのか」
「ごめんなさい、オレ、あなたに会うのが怖かったんだ。だから、藤堂さんが消極的なのをいいことに避けてた。でも、気づいちゃったんです、だから、オレ」
朝比奈の体がぶつかるように藤堂に抱きついた。腕がきつく藤堂を抱いた。その抱擁に藤堂の緊張が解けていく。同時に感じる危機感に藤堂は朝比奈を引き剥がした。
「私のことは侮蔑してくれて構わない――その感情や想いは、同情や気の迷いだ。もう私のことは、忘れて」
藤堂は顔をうつむけた。朝比奈の目が見れない。戦場に臨むとき以上の恐怖に藤堂はおののいていた。朝比奈の無垢で聡明な瞳に自身が映っているのを見るのが、怖かった。そのままわきを通りぬけようとする腕を、朝比奈が引き留めた。明確な意思を持ったそれに藤堂は息を呑む。
「藤堂さん、お願いだからオレを見てください」
言葉はいくらも浮かぶのにすべて喉元で磨滅して消えた。唇の震えを噛みしめて隠すのが精一杯だった。
「オレは、あなたより弱いです。あなたを守ることなんてきっとできないし、今だって出来てない。でも」
藤堂の灰蒼の瞳が月明かりに煌めいた。濡れたようなそれに朝比奈はにっこりと微笑んだ。
「せめてあなたの右腕と言われるくらい強くなります、なってみせます。あなたが気を抜くことができるくらい――弱味をさらせるくらい、強くなります。あなたが安らげるくらいに強く、でも今はまだ弱い。だから」
喉がヒューヒューと鳴る。浅い呼吸に心臓が脈打つ。朝比奈の言葉が怖い、でも――嬉し、い。
「オレはあなたを裏切らない。そこだけは信じてください。あなたのことを裏切って討ったりしない。だから、その緊張を解いてください。今の藤堂さんはまるで手負いの獣みたいです。威嚇して、怖がってる」
藤堂の指先が震えた。朝比奈の細い肩を掴む爪先が食い込む。その痛みに笑って朝比奈は言った。
「オレは怖くないです。藤堂さんよりずっと弱いんですから、怖がらないでくださいよ。全然自慢できないけどそれは事実だから。藤堂さんが怖がるほど、オレはきっと強くないです。藤堂さんを包み込めるほどオレが大きな男ならいいんですけど…オレはきっとあなたを傷つける。癒したりできない。でもオレはオレのすべてをかけるって決めました。――強く、なります。戦闘も戦術も強く上手くなります、がんばります、だから…」
灰蒼と暗緑色が重なった。朝比奈の瞳は潤んだように濡れたように息づいていた。
「オレを見てください」
わがままですいませんと朝比奈は謝ってから藤堂に抱きついた。
「それにしても藤堂さん、まるで走るように歩いてましたね。枢木ゲンブから逃げてたでしょう」
藤堂は戦慄した。朝比奈の聡明な瞳は藤堂自身が目を背けた深部まで暴く。足元がふらついた。歓喜と絶望が藤堂の中へ満ちた。
「一緒に、逃げましょうか。戦局も政治も日本も捨てて」
戸惑う藤堂に朝比奈は昼間道場で見せるような快活な笑みを見せて笑い声を立てた。
「冗談です。承知したら殴ってやろうと思った」
「朝比奈、私は…私などに付き合うのは戦場だけでいい。私生活まで拘束しようとは思ってない」
朝比奈との関係は藤堂が望んだぬくもりを呼び起こした。だが同時に枢木ゲンブにそれが隠し通せるとも思わなかった。ゲンブは必ずこの関係を破綻へと導こうとするだろう、どんな手段を使っても。朝比奈へのダメージを考えれば藤堂にはそれを承知することはできなかった。こんなにも慕ってくれる朝比奈が、藤堂を無機的に見つめるなど耐えられない。朝比奈との関係は甘く心地よすぎた。藤堂の忘れたはずの歓びを奪うのをゲンブは愉しみにしている。関係の構築は歓喜であり同時に破壊への恐怖を呼んだ。
「本気で言ってるんですか、それ。殴りますよ。オレが今言ったこと、聞いてなかったんですか。オレは自分の意思を変えるつもりはないです。藤堂さんがどんなに嫌がったってついていく。できるんなら私生活にまでもね。オレは貪欲なんです、欲張りなんです。枢木ゲンブが何だって言うんですか、あんな助平親父」
「…お前は、あの人の執拗さを知らない。怖さを知らない」
藤堂の声が泣き出す直前のようにか細い。離れていく藤堂の手を朝比奈は力強く掴んだ。
「ええ、そうですオレはあんな助平親父は怖くない! 知ったことじゃない、あんな奴のことなんて知りたくもありませんよ! オレが知りたいと望むのは藤堂さんだけです。オレが従うと決めたのも藤堂さんだけです! オレが赦しを請うのも額づくのもあなたにだけです」
オレのすべてをあなたに
あなたのすべてをオレに
ただ、それだけ
真摯というにはあまりに真面目で純粋な眼差しに藤堂は求めていたものを得た時のような恍惚と充実感を得た。朝比奈なら、壊れないかもしれない。それにすがりついてしまいそうになる。あぁ、私はなんて弱い。そんな私を、お前は。お前を信じていいのか、信じさせてくれるのか。
「誓います。神に誓います、この世のすべてあらゆるものにかけて誓います」
朝比奈が至上の笑みを見せた。
「オレはあなたと共に在ります。だから、泣かないで」
藤堂の膝が折れた。がっくりと地面に膝をついて首を垂れる。目の奥がじんと熱くしびれた。落涙の直前に感じるそれに藤堂は顔を覆った。嬉しさに涙するなど、いつ以来だろうか。
「あぁ――…ッ!」
ほとばしる歓喜の咆哮。むせび泣くように背を丸める藤堂を朝比奈は抱擁した。腕の中で藤堂の緊張が解けていく。それがひどく嬉しかった。傷ついた時に痛いと言ってくれるだけの信頼を得たかった。朝比奈は恍惚の笑みを浮かべた。誰も寄せ付けず傷を舐めていた藤堂も愛しかったけれどこうして腕に抱かれ涙する藤堂もまた愛しかった。あぁ、そうだ――藤堂の、すべてが、好きだ。それだけ、それがすべて。
藤堂が逃げるように早足で帰宅することは、なくなった。
《了》