思い起こさせるきっかけは、
 そう、些細で、小さな


   84:緩んだ蛇口が奏でるメロディ

 かすかなそれは確実に意識を浸蝕してくる。夢心地の意識のままギルフォードはその音色を聞いていた。閉め忘れたカーテンが薄墨の影を床に落としている。皓々と射す月光は頃合いが夜半なのだとギルフォードに教えてくれた。寝返りを打とうとして自分が寝床にしていたものに気づく。使い慣れてこそいるが寝台ではなく長椅子だ。急務や激務がたたったのか日頃にはない忙しさで、自室へ引き取るなり倒れるようにして長椅子に身を沈め、そのまま眠ってしまったらしい。かっちりと詰まった襟は普段なら気にも留めないのに今は息苦しいような気さえした。襟を緩めて夜着に着がえよう、と立ち上がりかけて失敗する。意識は立ち上がって着替えのところまで行くのに体の方は長椅子に沈んだまま動こうともしない。幽体離脱にも似たその感覚の誤差は心地よかった。
 意識の底で響いていた音色が不意に強く聞こえた。その間隔は一定で音量も小さい。ギルフォードは重い四肢を水中でもがくように動かして立ち上がると洗面台へ向かった。夜半と言っても月明かりで十分用は足せる。かえって煌々とした部屋の明かりの方が無粋な気さえして、ギルフォードはあえて明かりをつけなかった。鏡に映った己はひどく緩んでいる、と思う。背後に殺気を感じても機敏に動けるか疑問だ。黒褐色の髪を肩甲骨あたりまで伸ばしたのをうなじのあたりで一つに結っている。邪魔なら切れよ、とはギルフォードに会うたび同僚が揶揄する種だ。鋭敏さを窺わせるフレームの眼鏡とその奥の瞳。薄氷色のそれを見て忠誠を誓った主は色素が薄いのだなと言って微笑してくれた。
 この瞳を見ていると思いだす彼がいる。両腕すら囚われる囚人服の印象が先に立つ彼だが精悍さは消えていない。彼からは孤独の匂いがした。気高く美しく、それ故に何物をも近付けない。何物の干渉もしないかわりに影響も受けない、他者を拒絶した美しさだと思った。手に入れるのは困難だろう。テロリストの首謀者であるゼロを捕らえて目覚ましい出世を遂げた枢木スザクは彼を気にしているようだ。巧妙に隠してこそいるが彼を気にかけているのは気付くものは気付く。
 「藤堂、鏡志朗…」
イレヴンの名だ。洋名にはない響きは心地よく鼓膜を震わせる。唇と舌の動き、発音するときの息遣いまでもが彼を賛美していた。取り調べの名目のもとで公然と行われる暴力を享受し続けている。何かの手段に訴える気配も不満や不平を漏らすのも耳にしていない。奇跡の藤堂と謳われた英雄の堕ちた姿は、予想を裏切る高潔さだった。あがくでもなくもがくでもなく、ただ静けさのみがそこにあった。いっそ見苦しくもがいてくれた方が気が楽だった。ただ清冽な彼への対応は無作法を許さなかった。身体的な暴力なら、同時に捕らえられたであろうテロリスト達と同等に受けているだろう。時折目にする彼は少し苦しげに呻いている時さえあった。それでも、彼を汚すことなど何物にもできはしないのだ。きっとどんなに犯されても藤堂の高潔さは失われることはない。
 ピチャン、とカランから水滴の落ちる音が響いた。一定の間隔をおいて響くその音色にギルフォードはしばし聞き入った。


 夜中の通路に響く音に気づいて藤堂は目覚めた。これまでの生活の所為か、感覚器官は人より鋭敏に鍛えられている。相手の機嫌や具合などなら訊かずとも判るし人の気配にも敏い。通りかかった水場では蛇口が一つ緩んでいるらしく水滴が一定の間隔で落ちる。
「意外と抜けているな」
誰にともなくつぶやいて蛇口を締めなおす。そのつぶやきで彼を思い出した。
 テロリストとして囚われていたころだ。日々の暴力や凌辱の中で彼だけは違っていた。明確な敵意こそないが好意もない。ただ無感動なその薄氷色の瞳はまるで、幸せだったころ夜祭で見かけた水面に揺らぐビー玉のようだと思った。硝子玉のようなそれは藤堂を無感動に見つめてきた。下心を帯びた好意でもなく殺意すら感じさせる敵意でもない、稀有なそれが藤堂には珍しかった。艶やかな黒髪を伸ばして一つにまとめている。彼が歩くたび尻尾のように結った髪がさらさら揺れた。藤堂自身は鳶色で少し固い髪をしている。伸ばそうと思ったこともない藤堂にとって彼の存在は奇異で稀有なものだった。藤堂の灰蒼の色合いを少し薄めれば、彼の薄氷色になるだろう。そんな類似が藤堂に少なからず親近感を与えた。よく日に焼けて浅黒い藤堂と違い、彼は育ちの良さを窺わせる肌の白さだ。だが病的で繊細な白さではなく血色のよい色艶をしている。彼の敏捷性を表すかのように鋭角的なフレームの眼鏡。眼鏡の形は意外と印象を変えるのだと、眼鏡をかけている朝比奈が言っていた。慣れ合いや群れを拒むように鋭いそれは小動物の威嚇にも似ている。
 「ギルフォード、か」
藤堂は蛇口をきつく締めなおすと踵を返した。


 暴力も凌辱もない呼び出しは奇異でしかなかった。怪訝そうな藤堂をよそにギルフォードは煙草を取り出すと不器用に火をつけた。時折咳き込むような仕草をするからには吸い慣れていないのだろう。ギルフォードがどんな意図でそんな真似をするのか、藤堂は推し量りかねた。散々ブリタニアに煮え湯を飲ませてきた英雄と謳われた藤堂はそれまでの鬱屈のはけ口としてしか認識されず、受けるのは暴力や時に凌辱だけだった。だがギルフォードは兵士を部屋の外へ押しやり二人きりになると、それだけで何もしない。
 「吸い慣れていないなら吸うな」
けほっと、咳き込んでからギルフォードが藤堂を見た。煙草を携帯用の灰皿で押しつぶしてから藤堂を見下すように見た。藤堂が見る限り、ギルフォードは藤堂より年若だろう。朝比奈と同じくらいかもしれないと思わせるのは育ちの良さか。気苦労のない生活は見た目を若く保たせる。ギルフォードは不意に口の端をつり上げて微笑んだ。
「ようやく喋ったな」
二人はともにいながら会話を交わしたこともなかった。何より囚人であり反逆者でもある藤堂の方から口を利くことはなかったし、ギルフォードもよく話す性質ではない。二人が集っても降りるのは沈黙のみで期限時刻を知らせる兵士の声を待っているようなものだった。
 「吸うか?」
ギルフォードが示したのは安煙草だ。牢にいても軍幹部のうわさは聞こえてくる。ギルフォードが上等な家柄の出自であることはウワサを聞くまでもなく感じられていた。仕草や何かが洗練されていてそれが端々に窺えた。煙草を指し示す仕草もわざと粗野に見せているとしか思えなかった。藤堂が黙って首を振ると、ふぅんと言って新たに一本取り出した。咥えてライターで火をつける。そのライターすら高価なものではなく使い捨ての安価なものだ。消耗品に金はかけない主義なのか、彼の纏う衣服はそれと見て判るほど高価なものだ。軍の規則にそっている制服なのだろうが彼の体によく馴染んでいる。襟繰りや丈も彼の身長や体躯とぴったりで、既製品にはない柔軟さだ。
 「禁煙主義か? それとも、吸えない」
クックッと笑いながらギルフォードは不慣れに煙草を吸った。紫煙がふわりと漂い部屋の天井にとどまる。ギルフォードは不意に屈みこむと藤堂の唇へ吸いさしの煙草を突っ込んだ。反射的に吸ってしまって苦味が口の中へ広がる。藤堂自身は煙草が吸えない性質ではない。ただ吸わないだけだ。煙草の香りと煙は忌まわしい過去を喚起させた。枢木ゲンブに操られ抱かれていたころを思い出させる素因でしかない。
 黙って煙草を吸う藤堂に期待外れの顔をしてギルフォードは煙草を口元へ戻した。藤堂が吸った吸いさしに躊躇せず口をつける。自然とそれを眼で追っていた藤堂の視線と、不意にギルフォードの視線がかちあった。
「気になるか?」
それを最後に沈黙が下りる。いつも通りのそれを受け入れながら抗いたく思うのも事実だ。ギルフォードと話をしてみたいとさえ思う。その怜悧な容貌の奥には何かが隠れている。藤堂はそれを痛いほどに感じていた。
 ギルフォードの視線が藤堂をちろちろと窺う。会話の切欠を得たと喜んだのもつかの間、沈黙はあっという間に場を支配した。藤堂は能弁な性質ではないし、それはギルフォードとて同じだ。二人の間に降りた沈黙のそこで、かすかに音がする。一定間隔のそれは何なのかはすぐに知れた。
「音が、する」
「そうだな」
無為に子供じみた口調でつぶやいたギルフォードに藤堂は穏やかに応じた。水滴の落ちる音がなぜここまで響いてくるのかも判らない。それでも二人は同じ時間の共有を実感した。


 ギルフォードは洗面台の部分を殴りつけた。陶器のそれは不器用に軋んだ音を立てたが割れはしなかった。なぜ今ここで、藤堂のことを思い出すのかと思えば自身の脆弱さに腹が立った。囚われだった彼はもうすでにない。ゼロの策略は巧妙で最高のものだった。自身の手抜かりと詰めの甘さを思い知らされるその場でテロリストたちは逃げおおせた。囚われていた時の藤堂と共にあることが安らぎを与えたことなど断じて認めるわけにはいかない。テロリストである彼と共にありたいなど、ブリタニア軍人としては唾棄すべき感情だ。
 じぃんとしびれてくる手の痛みにギルフォードは栓を全開にした水流の下へ頭を突っ込んだ。冷たい水が髪の間をとおって頭皮の上を滑る。不規則な流れのそれは思わぬところから発露してギルフォードの背筋を震わせた。こめかみあたりから流れるかと思えば首筋を伝い落ちていく水流。結い紐を乱暴に解いて水を浴びた後、顔をあげた。濡れた髪は濡れ羽色をして月明かりにほろほろと艶をこぼす。薄氷色の瞳は凛と鏡像を見つめていた。

 藤堂は踵を返しながらギルフォードの名を聞いた時のことを思い出していた。単に情報に乏しいというだけでなく無垢に、名を知りたかった。問うた藤堂にギルフォードは戸惑いながらも名乗った。その時の初々しさはひどく愛らしいような気さえした。けれど彼は今、敵でしかない。障害となるならば退けるまで。そこに感情など挟んではならない、まして慕情など。気高い灰蒼の瞳は虚空を睨む。淡く芽生えた恋慕の情は芽吹く前に埋められる。相手は敵だ、障害になりこそすれ得になどなりえない。無為とも思えるそれが藤堂を抑制した。
 自身は今、誰と共にあるのか。それは明確で簡単だ。思想も目的もはっきりしている。ギルフォードの存在がなぜこんなにも後ろ髪ひかれる思いなのかが不鮮明だった。藤堂はそこからあえて目を背けた。向き合ったところで状況に変化など生じない。
「ギルバート…」
彼のファースト・ネームを呟きながら藤堂はたどり着いた自室で寝床へもぐりこんだ。

 あなたと二人でいた時間はそれはそれは甘美で、
 私はそれを忘れられずにいるのです
 そしてあなたとまた、そんな時間を分かち合いたと思うそれは

 罪なのでしょうか?


《了》

例によってムリヤリお題☆(待て)
この二人はどうしても”×”にはならないな…どっちも受けに見える(腐れ目)
お互いにちょっと気にする同士みたいな、「そういえばアイツどうしているんだろう」的コンセプトで(笑)
でもこういう”×”じゃない小説も書いててたのしーなー、藤堂さんとギルだからかな…      06/02/2008UP

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