こっそり、かくれて。
かくれて?
83:魔女集会
そこへ住まう人々が飢えるほどに街はその色を夜毎変えた。札束が飛び交い、法外な値段を吹っかけられることも珍しくない。そして昼間の朗らかさが抑制していた凶暴性があらわになる。諍いや小競り合いは日常茶飯事で、それが本格的な暴力沙汰になるのも珍しくもない。人々もそれを承知しているかのように振る舞い、適応できないものは餌食になるだけだ。真っ当な人が飢えるほどに闇は旺盛な茂みのように勢いを増す。小悪党がはびこり、成金が幅を利かせ銃器や刃物がぎらつく。飛び交う札束は昼間のそれより社会的信用も薄く物価も高い。財布のありかさえも気を抜けない。気づけば文無し、などありふれていて誰も助けの手など差し伸べない。すべてが自己責任であり、その利益が大きいほどに失態を演じた時のつけも大きい。表社会で取引されないものも横行する。明確な法律がない分、暗黙の了解がものを言い、世間知らずは痛い目を見る。
藤堂は何度目からも判らない、路地裏へ引っ張り込もうとする腕を払った。大通りでは立ち止まらず、暗がりへも近づかない。路地裏は入り組んで自身の位置を誤認させるだけでなく窮地に追い込む恐れすらある。従属を決めた男からの所用も済んであとは根城へ帰るだけだ。きらりと光る硝子細工を扱う露店に気を取られた隙に路地裏へ引っ張り込まれた。目的は明らかで衣服を脱がせようとする。藤堂は遠慮なく拳を振るった。手加減して殴ったつもりだが薄暗い路地裏で目測を誤り、藤堂の拳は男の顔へもろに入った。強すぎる手応えに藤堂の方が唖然としたが殴られた男はすごすごと暗闇へ消えた。
嘆息してすぐに大通りへ出ようとするとさらに深い路地裏から話し声が聞こえてきた。
「なんだよ抱かれろよ、抱かれたいって顔してるぜ」
「下衆が。貴様らに付き合う義理もない」
明らかに突き放したその声は意外に若く、藤堂は興味をひかれた。壁際には青年が追い詰められて数人の男が彼を囲んでいる。きらりと光るのはなんだろうと思いながら目を凝らす。
黒褐色の髪は日本人かと思わせたがその割に肌が白い。ブリタニアとのハーフか、純潔のブリタニア人か。血統政治を行う神聖ブリタニア帝国は日本を隷属させ、格差を明確にして優劣を示した。日本人はその呼び名すらイレヴンと変えられ、誇りを汚されている。男が卑しい笑いを浮かべて青年の耳朶へ何か囁く。その拍子に彼の顔が見えて藤堂は息を呑んだ。
「ギルフォード卿」
コーネリア皇女の騎士であり、戦績も派手だ。ナイトメアフレームの操作性も良く、判断力や敏捷性など一流に値する。一平卒が乗る量産型ではない指揮官機体に搭乗している。爵位も高いはずの彼が何故ここにいるかは判らないが、目の前の事態は停滞し、進展しない。双方が焦れているのが見て判る。いずれ暴力沙汰へ発展するだろう。藤堂は息をつくと彼らへ声をかけた。
「悪いが、彼を譲ってもらおう。拒否の意を示している」
「あぁ?」
突然現れた藤堂の姿にギルフォードが驚いたように目を瞬く。男たちが凄んで藤堂を取り囲むが、藤堂だって伊達に二つ名を得ているわけではない。一対多数の喧嘩も戦闘も経験がある。暴力に訴えるのは藤堂の主義に反しているが必要とあればその力をふるう。無抵抗であることと諦めて何もしないのとは天地の差があることを知っている。藤堂を囲む男たちの手にはいつの間にか獲物が光る。藤堂は空手で来たことを一瞬懸念したが、くすりと笑んだ。不利な戦いほど密かに燃える性質だ。前評判や先入観を覆すのは胸がすく思いがする。加えて藤堂には一連の武術の心得があり、他人に教えていたころもあるほどの腕前だ。その辺で数にものを言わせる喧嘩ばかりの輩に負けてやる気はなかった。
叫び声とともにナイフを構えて突進してくるのを体をずらしてかわすとその肩を掴み、腹へ膝蹴りを見舞う。後ろからの輩には肘鉄を見舞い、倒れ伏そうとする男の胸倉を掴んで突き飛ばす。男が取りこぼしたナイフを拾うと体を反転させて回し蹴りで男たちを蹴散らし、リーダー格の男のもとへ一気に詰めよりナイフをかざした。その首筋、正確に頸動脈へ切っ先を合わせてくる動きに男が戦慄しても後の祭りだ。藤堂はじりっと詰め寄った。
「もう一度訊こう。彼を渡してもらえないか」
灰蒼の瞳が冷徹に煌めく。冷静な判断と自身の威力を承知している動き。その強さ。
「わ、わかった」
両手を上げて見せる男に藤堂が切っ先を離した刹那、後ろから気配が動くのを感じた。身構える藤堂の前で、滑り込んだギルフォードが滑らかな動きで男の肘関節を突いて腕を曲げさせ、ナイフの切っ先を閃かせた。男の眼前でナイフの切っ先がとどまる。男たちの荒い呼吸音が響く。ギルフォードもただの世間知らずではなさそうだ。
「不意打ちとはな。お里が知れるというものだ。二人で相手をしてもかまないが、どうする」
リーダー格の男は藤堂の静かなる恫喝に脱兎のごとく逃げ出した。ほかの男たちもそれに続く。ギルフォードの拘束を無理矢理に解いて暗闇へかき消えた。
藤堂は改めてギルフォードの方を見た。ギルフォードの衣服は明らかに高貴な生まれを連想させる高価さで、ごろつきや小悪党が目をつける格好の標的だ。ギルフォードは乱れた長髪を結いなおしている。その結い紐すら、この界隈ではしばらく食いつなげそうな高価さだ。鋭角的なフレームの眼鏡と貴族的な顔立ちが彼らの神経を逆なででもしたのだろう。世間知らずな白い肌と瞬く薄氷色の瞳。ツンとしたそれは暇を持て余す彼らが痛い目にあわせてやろうと思いつくのに時はかからなかっただろう。
「外套はどうした。だいたい、なんでこんな場所に君がいる」
ギルフォードは藤堂より年少で、藤堂はつい説教くさい口を利いた。案の定ギルフォードはフンとそれを鼻で笑った。
「お前にそれが関係あるのか。なぜ助けた。借りでも作ったつもりか、イレヴンの反逆者」
藤堂の右手がしなって平手がギルフォードの頬に命中した。眼鏡がカシャンと音を立てて落ちた。
「もう一度訊く。何故ここにいる。さっさと元の場所へ帰れ」
時折紛れこむギルフォードのような輩が闇の餌食になるのを藤堂は何度も見ている。敵とはいえ、はち合わせたのも何かの縁だ。元来面倒見のいい藤堂が見過ごすわけもなかった。
「…私だっていろいろなものを見ておくべきだと思っただけだ。外套はなくした。財布も掏られた。まぁ、持ち合わせていたのは小銭入れだが」
ギルフォードは静かな動きで眼鏡を拾うと掛けなおす。拗ねたようにそっぽを向いて状況を説明するギルフォードの様子に藤堂は嘆息した。予想通りにギルフォードは闇の餌食になっていた。藤堂は自身の体を包んでいた外套を脱ぐとギルフォードの肩へかけてやった。ふわんとしたそれにギルフォードはびっくりしたように目を瞬かせて、無垢に藤堂を見た。
「表まで送ろう。タクシーでも拾って帰れ」
藤堂が手を掴んで歩きだそうとするそこへギルフォードが唇を重ねた。藤堂の方がびっくりして固まる。ギルフォードはクックッと笑うと外套の前を合わせた。藤堂の方が体格も良く、外套はギルフォードをすっぽり包み込んでいた。
「なんだ、驚くことか。礼をしたまでだ。一応、助けてもらったしな」
蠱惑的に微笑するギルフォードの表情に藤堂はギルフォードを狙う輩の審美眼は間違ってはいないと思った。顔立ちが整っているだけにその色香はそのあたりの情婦よりよほど艶めいている。
「まったく、魔女みたいだな、君は」
そう言えば藤堂の所属する黒の騎士団を率いるゼロを、そばに控えるC.C.が魔王と呼んでいるのを思い出した。ならばC.C.は魔女にでもあたるのか。
「キス一つで魔女呼ばわりされるのは初体験だな。お前こそあの身のこなしや動きは美しかった。お前こそ魔女だ。人心を震わせ惑わす色香がある」
事実、運動でうっすら汗ばんだ藤堂の肌は上気して薄紅色に染まり健康的で清潔な色香があった。それでいて人を惑わすような蠱惑的な色香もある。鳶色の髪も灰蒼の瞳も。気高く美しく、それゆえに孤高で蠱惑的で。不利な戦闘すら愉しみに変えてしまう、魔力。藤堂は男たちをいなしながら楽しげに微笑していたのをギルフォードは見た。人心を惑わす魅力を備え、そのカリスマ性を買われて日本再建のための一団にいた。彼がこれほどまでに支持されるのは、戦闘の巧さや作戦指揮の巧みさだけではないだろう。戦闘が巧いだけの輩は多い。だが人心を惹きつけるそれは生まれ持った資質だ。
二人はどちらからともなく歩き出した。藤堂の外套はほんのりぬくんでいて、ギルフォードは体が拓いていくようだった。敵であるのに、敵であるからこそ。決して得られないだろうそれに、人々は魅了される。先を歩く藤堂の肘がツンと引っ張られた。歩を止めて目を上げればギルフォードが意味深に笑んでいた。
「せっかく魔女が邂逅したんだ、魔女集会と行こうじゃないか」
指し示すのは酒場だ。一瞬、逡巡したがもう位置的には表通りに近く、店も真っ当そうだ。わずかな飲食で法外な値を吹っかけるような不穏さはなかった。客層も裕福とは言い難いものばかり集まっている。それでいて活気があるのは真っ当な商いで儲けているからだろう。
「君には勝てないな」
ギルフォードはそれを聞くと足取りも軽やかに店へ入った。からんからんと鐘が鳴るのも一般的だ。藤堂はギルフォードの後へ続く。椅子へ腰を落ちつけた藤堂をギルフォードは窺っている。猫が水を呑むように運ばれた酒を舐める藤堂にギルフォードはくすくす笑った。
「洋酒は好みじゃないって顔だな。日本酒の方がいいんだろう」
一般的に洋酒より日本酒の方がアルコール度数が高いものの方が多い。日本酒を常飲していたなら洋酒など果汁のように思えるだろうことを思ってギルフォードが揶揄した。藤堂はくすりと笑んだ。唇が弓なりに反って両端をつり上げるような笑みは夜伽に倦んだ情婦のそれに似ていた。思わぬところで藤堂の色香が露見する。
「確かに、洋酒は少し甘ったるいな。甘さは特に嫌うわけじゃないが、子供でも飲めそうだ、洋酒は」
杯を目の前へ掲げてくふんと笑む。それを一息に流し込む。濡れた唇が店の明かりで照って、艶っぽい。酔いがほんのり回ったのか目元や唇が淡い紅色に染まった。
藤堂のそれは数学的だとギルフォードは杯を傾けながら思った。その定理に気づかないうちは方程式が解けないように藤堂の色香にも気付かない。だが一度定理を知ってしまえば面白いように方程式が解けるように、藤堂の変化は著しく見え、また魅了される。目元や唇の変化が著しく、嚥下するたびに上下する喉仏すら婀娜っぽい。
「魔女め」
うそぶくギルフォードの言葉に気づかず藤堂は酒を舐めている。ちろちろ覗く紅い舌先は狐火のようだ。人心を惑わすという、まやかしの焔。
「何か、言ったか」
「いいや、イレヴンは厄介だと思っただけだ、気にしなくていい」
「ブリタニアも充分厄介だがな」
二人の喉がこらえるように震え、同時に噴き出して爆笑した。酒が二人の抑制を奪っていた。普段が禁欲的なだけにタガが外れればその被害もひとしおだ。
お互い交渉相手への不満と揶揄を肴に酒を呑む。何事も胸に収めてしまう性質の二人なだけに不満には事欠かない。
「魔女、か。魔女の邂逅に乾杯、だ」
「まったくだ」
二人は同時に杯を干し、その勢いで自然と唇を重ねた。触れてくる体温の融ける感触と酒の酔いは心地よく、二人の脳を犯していった。
《了》