油断の出来ない暗闇で
あなたのこと、を
81:無人ビル
夜半で人通りもなくなった道をギルフォードは歩いていた。足音は殊更に響き、頃合いを考えて靴音が妙に気にかかった。手に持った携帯用の電灯は無作為に円く範囲を照らしだす。出自は上等だが軍に籍を置いて日の浅いギルフォードに上官は夜半の巡回を命じた。もっとも夜半の巡回は新兵なら皆経験することなのでそのことに取り立てて文句を言うつもりはない。けれど命令を受けた時の憐れむような侮蔑した周りの視線と、社会勉強だよと付け加えた上官の態度は、ギルフォードの気を殺いだ。己より上の血統をもつ者が下っ端の仕事をさせられるのを見るは胸がすく思いなのだろう。想像がつくだけにギルフォードはこれからを考えて頭が痛くなった。
志を一人前に持って軍に籍を置いたはずなのに、結局のところそれまでと変わらないしがらみにとらわれている。皇族統治のもとの貴族同士のやり取りはただ頭を悩ませるだけだった。侵攻し占有した領地であるエリア11、イレヴンと呼び名を変えた日本人を使用人として扱い、自身は策謀や血統の保守に心血を注ぐ。ギルフォード自身はイレヴンに特に思い入れなどない。戦争に敗北した当然の結果だと思うし、ギルフォードはブリタニア人なのだ。ブリタニア人がどんなに優しい題目を唱えたところで斜に見られるのがオチだ。まっとうに受け取ってもらえるとも思わないし、そういった慈善主義を持ち合わせてもいない。
通りかかった建物は黒々とそびえて不気味にギルフォードの目に映った。取り壊しが決まり、新たな施設として建設が予定されていると聞いた。建設関係にも汚職が取りつくのはもはや周知の事実でもある。決まり切ったそれに唱える不満すら決まり切って聞こえてきた。必要悪だ。人々は誰しも鬱屈したものを抱え、はけ口を求めている。
工事に取り掛かるまで間がないのか、建物の柵は緩み看板だけが無様に建てられていた。その時になって初めて、ギルフォードは耳鳴りのようなそれに気づいた。金属にも似た高さを持ちながら、不規則に震え、途切れる。人気のないそこには不似合いな音にギルフォードは耳をすませた。何かもめ事が起こっているならば見過ごすことはできない。人数はそう多くないと判断してギルフォードは柵を越えた。身を守る術はあるし、忌避していては何のための巡回だか判らない。腰の銃の感触を確かめながらギルフォードは歩を進めた。足音は朗々と響き、朽ちた建物は電灯の範囲内にのみ露出する。近づくにつれてその正体が判ってきた。子供の声だ。建物の警固は完全に緩んでおり誰でも侵入は可能だ。子供が入り込んでいるらしい。しかもその子はきっと泣いている。
途切れる震え声としゃくりあげるような奇妙な音。それでもそれを必死に押し殺しているのが感じ取れる。さっと向けた電灯にびくりと少年が反応した。その少年にギルフォードは仰天した。
「ル…!」
言葉が出ない。兵士の間でも話題に上るほどの大事件の当事者でもある少年だ。
「う、ぁわぁ、あ――…」
ギルフォードの姿を見て気が緩んだのか、ルルーシュはみるみる顔を歪めて泣いた。賢そうな整った顔がくしゃりと歪む。零れ落ちそうな紫水晶の瞳はあふれる涙で滲んですら見える。ルルーシュのもとへギルフォードはかがみこんだ。電灯を置いて、諭すようにルルーシュの頭を撫でてやる。
「こんな時間に、こんな場所におられてはいけません。お送りいたしますからお部屋へお戻りに――」
ルルーシュの小さな手が伸びた。ギルフォードの軍服をしっかり掴み、体を投げ出すように抱きついてくる。その小さな震えにギルフォードは手を引きはがすのをためらった。ひくひくとしゃくりあげながらうめくようにルルーシュは泣いていた。ギルフォードのまだ薄い胸に頬を寄せて小さな爪を立ててしがみついてくる。
「うッ、うぅ…ぁひ、っく、ぅ…ッ」
ギルフォードはどうしていいか判らず、ただ母親がするようにその小さな背を撫でさすった。抱きつかれた勢いで二人して埃っぽい床の上に倒れこんでいる。衣服の汚れは気にならなかった。しばらくそうして朽ちた天井を見つめているうちにルルーシュの震えはおさまり、ずずっと鼻をすする音がした。
「ごめ…なさい…」
ギルフォードの上から退いたルルーシュはまだおさまらないしゃくりあげに声を途切れさせながら謝った。ギルフォードは苦笑すると首を振った。
「お気にならりませんよう。なぜ、このような場所へ…?」
ルルーシュの母親が何者かによって殺害された事件はまだ記憶に新しい。その場にいた彼の妹はその衝撃からか、両目の視力と両脚の自由を失った。ルルーシュ自身もそれを目撃しているはずだ。統治する皇族の殺害という大ニュースは兵士たちの間を瞬く間に駆け巡った。
母親を失いながらルルーシュは気丈に振る舞っていた。妹を安価な同情や好奇の視線から守り、皇子としての誇りを失わず生きているように見えた。まれに見る才覚だとギルフォードは思ったが口には出さなかった。何物かを理不尽に失ったとき、人は別の何物かに打ち込まなくては生きてゆけない時があるのを知っていた。ルルーシュは妹を守ることに意義を見出し生きている、そう見えた。
「だって」
ルルーシュはうつむいた。しゃがんだ膝小僧の汚れが、彼の滞在時間の長さを示唆している。その汚れを払ってやるとルルーシュの大きな瞳から瞬く間に涙があふれてきた。
「僕を抱きしめてくれる人はもう、いないんだ――!」
うわぁぁ、と彼の泣き声が響いた。あふれてくる涙をぬぐいながら鼻をすする。紅く澄んだ唇は何かを言いたげに歪みながら泣き声を吐き出す。握れば折れそうなほど細い喉は嗚咽に痙攣し、か細い肩は見て判るほどに震えていた。母親を失った悲しみの発露にギルフォードはなすすべがなかった。
ギルフォードの表情が一瞬、歪んだ後、その腕は電灯を投げ出しルルーシュの体を掻き抱いた。満ちる薄い闇の中でルルーシュは目を見開いた。互いの顔程度は月明かりで認識できる。細部までは判らないが、この場にそれらは必要なかった。抱きしめてくれる腕は確かに温かく、まだ幼さの残るその動作はルルーシュの悲しみを緩和させた。二人の黒髪が濡れ羽色の艶をこぼす。月明かりはほろほろと涙のように二人の黒髪を艶やかに見せた。
「ご無礼お許しください。あなたは一人ではありません、一人では――…」
茫然としたルルーシュにギルフォードは淡く笑いかけた。
「妹君もおられるではありませんか。これから知り合う人々だっていらっしゃいます。お一人などではありません」
「…僕と、仲良くしてくれる人?」
「はい。まだ人生は長いですよ、いろいろな人と知り合う機会もございます。きっと、仲の良いお友達ができます」
にっこりと笑うギルフォードにルルーシュは頬を染めて顔をうつむけた。不思議と涙や嗚咽は止まっていた。
「じゃあ、あなたは?」
不思議そうに視線で問い返すギルフォードにルルーシュは胸がはずむのを感じた。この人を手に入れるためなら何をしたっていい、幼心にそう思った。
「あなたは僕を抱きしめてくれたでしょう? あなたは? あなたの名前すら知らないのに」
「知らなくても差し支えはございません。ただの兵士です」
ルルーシュは嫌々をするように頭を振った。涙で潤んだ紫水晶の瞳がギルフォードを射抜いた。
「教えて。…教えて、ください。あなたの名前を。知りたいんだ…!」
月明かりの中で白皙の美貌が二人向かい合っていた。
「ギルバート、と申します」
ギルフォードはあえてファミリー・ネームは伏せた。後々の諍いの元になっても厄介だし、それをこの幼子に背負わせる気にはならなかった。薄氷色の瞳を眼鏡の硝子越しにルルーシュは見つめた。
「ギルバート、さん」
「呼び捨ててくださって構いません。生まれが違います」
「ギルバート」
促されるままに呼んだ名前にギルフォードは微笑した。紅い唇が弓なりに反り、笑みをかたちどる。その美しいさまに魅入られたようにルルーシュは頬を染めた。黒い髪と薄氷色の瞳との対比が美しいと思った。それでいて唇は適度に紅く肌にくすみもない。身だしなみは必要最低限、嫌味にならない程度に整えられており、自身が周りにどう見られているか認識しているのが判る。
「戻りましょう。お送りいたします」
ギルフォードはそう言って投げ出した電灯を拾った。白々としたそれが照らすのは朽ちた建物だ。ギルフォードの促されるままにルルーシュはギルフォードの後をついて行った。建物に忍び込んだ頃に体に満ちていた悲しみだとか切なさだとかそういったものはすべて洗い流されているような気がした。ただ、目の前を歩くギルフォードの笑顔が満ちた。守る義務を感じる妹への愛しさとは違う。手に入れたいと切実に思った。けれど彼はきっとそれを拒むだろうことも判っていた。叶わぬ、それ故に欲する。
建物の外へ出るとギルフォードはルルーシュの正確に三歩後ろを歩いた。それは彼らの身分の差でもある。後ろから嫌味にならない程度に、こちらです、と方向を指示する。行き届いたそれは丁寧な扱いに慣れているルルーシュに不快感を与えることはなかった。自室へとつながる建物の前に着いた時、ギルフォードは一礼して立ち去ろうとした。その背中へルルーシュは叫んだ。
「ギルバート!」
ギルフォードが振り向く。怪訝そうな顔は無防備で愛らしかった。
「僕のお嫁さんになってくれませんか?! 僕は」
突拍子もないそれをギルフォードは嘲弄したりはしなかった。ただ黙って続きを待っている。
「僕は、あなたと一緒にいたいんだ…!」
刹那、ギルフォードの顔が泣き出しそうに歪んだ。ルルーシュは吐いた言葉を後悔した。あまりに考えなしのそれがギルフォードを苦しめたことに気づいた。
「身分が違いすぎます。それに、私は男ですよ、これでも」
冗談のようにかわして笑うギルフォードの表情をルルーシュは一生忘れないだろうと思った。儚いようなそれは妹にも母親にもなかった。ただこの手を、指の間を何かがはらはらとこぼれ落ちていくのを感じた。
「私はブリタニア軍に属します。及ばずながら、共にありますよ」
慰めるように言ってギルフォードは快活に笑った。眼鏡の奥の瞳は愛しむようにルルーシュを見ていた。それだけですべてが救われるような、赦せるような。
「ギルバート…」
一礼して去っていく背中に寂しさを感じながら共にあると言ってくれた優しさに泣いた。お悔やみを述べる親族の言葉は上っ面を滑るだけだったが、彼の言葉はルルーシュの深部に届いた。
「絶対、手に入れるよ」
ルルーシュはその日、失いかけた強さを取り戻した。駒や人質だと言われてもかまわなかった。ただ自身が彼と同じ位置に立つために。そのために力を。すべてを手に入れる、支配する力を。
「ギルバート…」
甘い呪文のようにその名を紡いだ。その面差しを胸に抱き、ルルーシュは実の父による手駒のような扱いを享受した。力を欲する欲望が、芽吹いた瞬間だった。
《了》