強く、強く願うのです
なにかができるようにと
80:立ちすくむ
カツンカツンと硬質に響く靴音に兵士が姿勢を正す。ギルフォードは無表情に手続きをこなすと牢の前へ立った。狭い牢の中で座ったままの藤堂は顔も上げない。両腕を拘束する囚人服。格子越しにギルフォードは藤堂を見た。鳶色の髪。貧弱さを感じさせない焼けた皮膚。乱れた襟元と首筋に散る紅い鬱血点が、藤堂がなんの標的にされているかを明らかにする。兵士たちから報告は受けていない。彼らは弱くそれ故に狡猾だ。
「来てもらおうか」
控えていた兵士が牢の鍵を解く。藤堂が黙って立ち上がるのを見てからギルフォードは歩き出した。その後ろに藤堂が続く。兵士は隙をついては鬱憤を晴らす。冷たい銃口は幾度となく藤堂の背中を小突いた。ギルフォードはそれに嫌悪の眼差しを向けたが何も言わなかった。
取り調べの名目で使用される部屋は様々な意味で頑丈に出来ている。そこで行われるのは詰問であり時に暴力すらも横行した。藤堂を突き飛ばすように部屋へぶち込むとギルフォードは兵士を下がらせた。兵士は戸惑うような表情を見せたがギルフォードの無言に耐えかねて了承の意を示し、扉を閉めた。簡素なテーブルと椅子が体裁を繕うように置かれている。ギルフォードは不意にそれらを蹴った。けたたましい音を立ててそれらが転がる。藤堂の口元が一瞬、キュッと引き締まった。
「座れ」
威圧的なそれを藤堂は享受した。黙って床へ膝をつく。狭い窓から差し込む月光が椅子の金属部分を照らすのが見えた。
「英雄か。イレヴンの」
藤堂は答えない。引き締まった口元は凛々しく意志の強さを窺わせた。ギルフォードは嘲笑うように口の端をつり上げると藤堂を見下ろした。
「堕ちたものだな」
「…英雄などというものは幻想だ」
どこまでも従順に、それでいて自我を失うことのない藤堂にギルフォードは感情が渦を巻くのを感じた。英雄の高みから囚人の底辺へ堕ちながら、目の前の藤堂はなんでもない顔をしている。ギルフォードはかがみこむと藤堂の頤を捕らえた。そのまま唇を重ねる。乾いた唇は必要最低限の食事と過酷な扱いの所為だろう。潤すように舐めてやっても藤堂は平然としている。かたく詰められた襟を緩めていく。留め具が外されていくのを、藤堂は見もしない。
鼻白んだようにギルフォードは藤堂を突き放す。立ち上がったギルフォードは明確に藤堂を見下した。
「私は貴様を犯しにきた」
刹那、藤堂の目がギルフォードを見た。切れ長の灰蒼の瞳。鋭い眼差しのそれは猛禽類のそれに似ている。それでも口を開かない藤堂にギルフォードが焦れた。肩書きや矜持を破壊する威力があるはずの言葉は藤堂の中を素通りした。
「覚悟があるとでも言いたいのか」
ギルフォードの目が眼鏡の奥ですがめられる。苛立ちがギルフォードの内部を侵食した。
灰蒼の瞳はギルフォードのすべてを見たかのように煌めいた。潤んだようなそれは痛むようにギルフォードを見る。
「変わらないぞ」
ピクンとギルフォードの柳眉が跳ねた。完璧だった無表情にほころびが生じる。
「犯されたから犯すのか」
「黙れッ!」
藤堂の言葉が鼓膜を震わせた瞬間、過去がフラッシュバックする。ギルフォードの冷静さは確実に侵食されていった。藤堂は動じない。両腕を囚われてなお、相手を見抜き、見据える。
ギルフォードの指先が襟をかき合わせる。よみがえるそれはもう何度も見た夢。何度も苛むそれは夢なのか現なのか判らなくなるほどにギルフォードを傷つけた。押さえつけられた両手。引き裂かれる布と肌の上を這う指先の感触。卑猥な嘲りと笑い声。大きな手が口を覆った。口などふさがれなくても恐怖と衝撃に声は出なかった。
「ギルフォード、といったか」
藤堂の声が重なって聞こえた。
「やめ…ちが…」
ギルフォードの長身がふらつく。冷静な藤堂の声は上っ面を滑った。
「ギルフォード!」
「うるさい黙れぇッ!」
うつむけた顔をあげてギルフォードが腕をしならせた。そうと気づいた藤堂が歯を食いしばる。制御を失った一撃の威力に手加減はない。藤堂の体が一瞬ぐらりと傾いだ。
眼鏡の奥の薄氷色の瞳が見開かれている。息が荒く、肩が上下しているのが見て取れた。
「逃げるな。逃げたところで事態は変わりなどしない。先延ばしは長く、続かない」
ギルフォードは子供がむずがるように頭を振った。長い黒髪がサラサラ滑る。眼鏡がカシャンと音をたてて床に落ちる。それすら気付かないかのようにギルフォードは顔を覆った。
「私は、…わたし、は」
男たちの嘲りがこだます。男たちは幾度もギルフォードを犯した。抵抗する気力も失せ、意識を保つのがやっとの頃になってギルフォードはようやく解放された。彼らが犯したのは体だけではなかった。青臭い自尊心も正義も忠誠も何もかもを嘲り否定し、犯していった。
「私は…そんな、に…! あんなこと、あんな…」
砕けた欠片を拾い集める惨めさから目を背けた。欠片を奥底へしまいこみ、無きものとして生きてきた。そうしなければ己が保てなかった。
「人はみな立ち上がれる。転んでも立ち止まっても…理想論だがな」
藤堂が自嘲するように口元を歪めた。藤堂の内部で血濡れの部屋がフラッシュバックした。師弟関係にあった少年は父殺しの罪を背負った。彼に声をかけることができなかった。責めることなどできなかった。慰め癒すことなど、なおできなかった。なにも映さない空疎な瞳の前に、藤堂は屈した。
「負った傷を一部として取り込んでいくしか、道は」
藤堂の言葉に、ギルフォードの怜悧な顔が歪んだ。唇がわななく。震える喉からは何の音も漏れてこない。薄氷色の目が潤んだ。藤堂は眼を伏せて嘆息するとすべてを吐き出すように呟いた。
「立ち上がらなければ生きていけない…どんなに時間を要しても。人は歩いていく、そのためにかかる時間の長さを責める権利は誰にも…ない」
「…ッ」
ギルフォードは膝を抱えてしゃがみこんだ。顔を伏せた膝の上にぽとぽとと熱い雫が落ちる。
「う…ッぅ…う…――ぅ…」
ひくひくとしゃくりあげてギルフォードは泣いた。
膝を抱えて体を丸めて泣く姿に懐古の念を抱いた。あの少年もまた、膝を抱えて丸まっていた。藤堂は息をつく。せりあがる無力感。膝を抱えて傷を舐める彼らに、してやれることなどないのだ。理想論を謳い激励することは容易い。けれど無責任な応急手当は時に傷を深めることを藤堂は知っている。だからこそ、手を出すことに躊躇する。藤堂はまっすぐにギルフォードを見た。怜悧な印象が消えた彼は、ただ傷ついている。膝を抱え肩を震わせ声を殺して泣いている。それだけ彼の傷は深いのだろう。目を背けてきたツケを今支払っている。
「――ぅあ、あ…ぁあ――」
ギルフォードは顔を歪めて泣いた。震える喉、わななく唇。落ちた眼鏡を拾うこともせず膝を抱える。白い頬をすべる涙が床へ落ちて灰色の染みになる。
感情の発露が傷を和らげることを藤堂は知っている。だから黙って、泣くギルフォードを見ていた。そうするしか術がないと判っていた。陳腐な台詞も思いつかない。同情はしない。抱きしめることもできない。そうして人々は無力を知る。そして力を欲するのだ。幾つになっても涙は苦手だ、と藤堂はひとりごちた。狭い部屋にギルフォードの嗚咽がこだましていた。
《了》