曇る視界がクリアになるほどの
79:狭い風呂場
夜もふけた頃合になると耳鳴りのような虫の音も聞こえなくなる。いつでも使ってくれて構わないと言われた言葉を真に受けたふりをして夜更けに風呂場へ向かった。寝床からは遠く造られていて、ある程度の遅さなら見逃されるだろう位置にあった。脱衣場へ入ると手元の明かりを置いて衣を脱いだ。夕餉も済んで皆が入浴をする頃合には気が乗らずに断りをいれた。だが飽和した思考は昼間浴びた汚れを浮き上がらせて四肢にまとわりついた。夜着に着替えようとする指先すら汚れているような気がして非常識だと知りながらこんな時間に湯を使うことになっている。
考え事の主は飄々として憂いの片鱗すらのぞかせてはいないと自嘲しながらもどこか払拭できずにいる。機械的に指を動かして帯を解き、衣を脇へ寄せる。どうせこんな頃合だし誰もいないと思って扉を無造作に開け放った。
「あ、九郎」
「かっげ、とき…!」
叫びそうになる九郎の口を景時が慌ててふさいだ。長い指を立てて静かにと戒める。
「お前、なんでこんな…!」
「九郎こそどうしたの、もう寝たって弁慶が言ってたから」
湯船に張られた熱い湯から上る湯気が九郎の視界を白く濁す。景時の裸体が思ったよりずっと近くに在って九郎は身の置き所を不意になくしたような恥ずかしさを覚えた。
九郎が日々頭を悩ませ悶える原因が景時だ。九郎が思いのたけを伝えられずに悶えるのを景時は慈愛に満ちた目で見てくれていた。時を気にする九郎に景時は自ら言った、色恋は時の速さなんかじゃ決まらないから、と。
「本当にどうしたのさ、九郎…こんな、時間に」
景時の髪はしっとりと濡れて普段は上げている前髪がおりている。湯気で煙る視界に目を眇めながら九郎はそっぽを向いた。
「九郎」
「ちょ、ちょっと、考え事を…」
景時はふぅんと言うと体を引いた。意外な呆気なさに拍子抜けしながら九郎は髪結いの紐を解いて浴場へ入った。
「ごめんね、俺がいて。すぐ出るよ」
「べ、別に構わない。ゆっくり入れ!」
怒ったように言い捨てて九郎は湯を浴びる。元々大人数向けの浴場ではない。肘と肘がぶつかるとは言わないが、男二人が入ればそれなりに手狭だ。体を洗いながらも隣の景時が気になって仕方がない。
景時は短髪だが張り付いた髪が妙に艶っぽい。碧玉の瞳と同じ色の髪。鎖骨の間のくぼみに嵌まった宝玉と紋様。同じ色であるそれらは揺らいで底の見えない海に似ているとふと思った。瑞々しく水滴を弾く皮膚は張りがありその色艶は息遣いを感じ取れそうなほど官能的だ。
「九郎?」
ひょこりと覗く顔に九郎が仰け反った。落ちた手桶から湯が零れる。
「いきなり見るな!」
理不尽なそれに景時は気を悪くするでもなくふにゃッと笑うと謝った。
「ごめん」
景時が視界から消えてなお残る残像を振り払おうと九郎は勢いよく頭を振った。
数瞬の間を置いて困ったような景時の声がした。
「痛いよ、九郎」
「は?」
頭から湯を浴びた九郎が景時の方を振り向けば、九郎がいるほうの頬を撫でるように拭っている。景時が九郎の濡れた髪をつまんだ。橙色のそれは少しくすんだ焔色になっている。
「頭振らないでよ、水滴が飛んでくるって言うか髪がね、顔に当たるんだよ」
九郎が頭を振る勢いのままになびいた髪が隣の景時を直撃したらしい。九郎の髪は腰へ届くほどの長さだ。
「す、すま」
そこで九郎の言葉は飲み込まれた。柔らかく濡れた唇が重なる。押し退けようとしてか引き寄せようとしてかも判らない手が宙を泳ぐ。景時の指先はそんな手首を捕らえて九郎の体を固定した。
「か、げ」
「ぅん?」
息継ぎの間に離れた唇と九郎の驚愕を哂うように景時は舌で湿した唇を乗せてきた。その勢いのままにぐらりと身体が傾いだ。ようやっとで踏みとどまる九郎の首筋へ景時は顔を伏せた。湯を浴びて赤らんだそれとは思えないほど景時は冷え切っていた。
「九郎…九郎はさ、オレのこと、抱こうとか、思わない?」
不意に広がる温いそれが涙なのだと気づいて九郎は指一本すら動かせなくなる。
「ねェ思わないの? オレのこと、抱こうとか…ごめん、気持ち悪いね、オレ」
九郎の手首を捕らえる指先が白い。景時が湯を浴びながら考えに耽っていたのだろう。身体が冷え切るまでに景時を悩ますそれに憤りながら九郎は景時を抱きしめ返した。
「悪い、お前を抱きたいと…思う。けど、お前に無理を強いたくはない…」
刹那、景時が顔を上げて九郎と真っ直ぐ見つめ合った。海面のようなゆらめきを宿す碧玉の瞳が潤んで微笑していた。壊れ物のような儚さに九郎は思わず掻き抱きそうになるのを必死に堪えた。
「弱気になんか、なるなッ! お前らしくもない! 余裕で笑っていろッ」
九郎の手が景時を突き飛ばし勢いよくそっぽを向いた。その瞬間にパァンと音がしてまずいと思った頃には時すでに遅く、景時が唇を尖らせていた。勢い余った九郎の長髪が景時の顔に二度目の衝撃を見舞った。拗ねた子供のような顔をする景時に困りながら、時折見せる子供っぽさに頬が緩んだ。
「九郎ー! 髪が痛いんだってば! んもー切るよその髪!」
「す、すまん」
言い放って気がすんだのか景時は手桶の湯を浴びると湯船に飛び込んだ。熱い湯に肩まで浸かって景時が息をつく。
「嘘だよ。九郎のその髪、すごく好きだよ。切らないでね」
へヘッと照れたように笑って景時がざぶざぶと湯で顔を洗った。
「わ、判っているッ! 切ろうなんて思っていない…」
ぎこちない手付きで九郎が体を洗う。その一挙一動が見られているようで指先が震えた。九郎が意を決して振り向けば景時は湯船の中でこっくりこっくり舟をこいでいた。日々の疲れを外に出さない性質の景時の限界ははたから見れば唐突にやってくる。九郎はフッと微笑すると景時の方へかがみこんだ。
「馬鹿な奴だ、お前は…」
気を回して傷ついてそれを隠して。不意に見せる片鱗すらときに見落としそうなそれ。気づいてやりたいと思わせるその感情は好意以上。景時の唇が不意に開いた。
「ごめんね、ありがとう…救われてるよ、すっごく」
九郎は勢いよくそっぽを向いた。ぺしっと間抜けな音がして九郎は恐る恐る景時を見れば、眠りから覚めたばかりのような半眼で九郎を睨んでいた。その指先には長い九郎の濡れた髪。
「九郎…」
「いやあのホント悪かった…」
平身低頭謝る九郎の姿に景時は唇を尖らせていた。頭を下げている九郎の見えないところで景時が微苦笑を浮かべた。
「ありがとう」
景時が機嫌を直す頃には二人してのぼせていた。くらくらする頭で景時は湧き上がる笑みを堪え切れなかった。
こんな諍いを起こせる喜び
君と、二人で
《了》