君の腕の中で
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夜も更けた頃になって香椎は孝一朗の自室を訪れた。昼間、授業が終わり生徒のあしらいも終えた孝一朗は身軽く香椎に駆け寄ってきて誘ったのだ。香椎は元来、身分が違うと感じる人種とは付き合わない性質だが孝一朗はそんな壁をつき壊す人懐っこさで香椎の了承を取り付けた。世の中で力を持つのは正義ではなく自信と勢いだということを香椎は経験から知っていた。孝一朗は親しみやすいには違いないが、それ故に無遠慮で強引な面がある。
扉をノックすると待ちかねたように開いて孝一郎が顔を出す。黒褐色の髪は額をすべて見せ、前髪がちらちら揺れる。秀でた額は真ん中にホクロがあってそれは幼いころから見慣れた仏像を思い出させた。仏様より積極性のある優しさを見せる孝一朗は罪なく笑うと香椎を部屋へ招き入れた。
「お邪魔します」
「どうもありがとう、来てくれて。ごめんね、君の時間なのに」
「…別に、いいっすよ。明日休みだし」
孝一朗はいそいそと香椎に席を勧めると水場へ行きかける。
「お茶でも淹れようか。コーヒー…は眠れなくなっちゃうかな。紅茶とか」
「おかまいなく」
あわただしく茶器をひっくり返し始める様子に香椎は淡々と断りを入れた。落ち着かない様子ながらも、普段との相違に香椎が気付いた。
「…先生、浮かれてません?」
孝一朗は活動的な性質らしく、一所にじっとしていることは少ない。さすがに授業はこなすものの、説明をする身振りは大きい。それがどうも、輪をかけているような気がする。
孝一朗はびっくりとしたように目を瞬くと、視線をさまよわせた後に照れくさそうに頬を掻いた。香椎の向かいにちょこんと座ると頬を染めてうなずいた。
「うん、ごめん。香椎君が俺の部屋に来てくれるってなって、嬉しくて」
良くも悪くも嘘の苦手な孝一朗は常に直球だ。露骨というには誠意のこもりすぎるそれに香椎の方が照れた。
「…香椎君?」
さっとうつむいて眼鏡の位置を直す香椎の様子に孝一郎が覗きこむ。
香椎は孝一朗を押し返すと息をついて天井を仰いだ。孝一朗は浅い付き合いに慣れた香椎の、思いもしない深部にまで触れてくる。孝一朗と付き合うようになって、戸惑いながらもそれを許容している自身がいることに香椎は気付き始めていた。香椎の心情を知ってか知らずか、孝一朗はにじり寄ってきて香椎を真正面から見つめる。
「コウ先生」
孝一朗の常態がそうなのかと香椎はいつも思う。孝一朗はいつも相手をまっすぐに見つめてくるのだ。無垢な仔犬のようなその視線は、彼が犬に属するものだと妙に納得させる。それは相手がだれであっても変わらない。香椎であっても、理事長であっても。
孝一朗と理事長が常ならぬ関係で結ばれているのは彼らを見ていれば即座に判る。ただの教官と理事長という職業上の付き合いを超えた何かが彼らの間にはあるのだ。島に来てまだ日が浅いといえる香椎にはそれがなんなのかは判らない。けれど理事長は孝一朗を揶揄しながらも見守っているし、孝一朗もまた理事長を気に留めている。
「コウ先生は、俺と付き合ってるんですよね」
深い関係をいとも簡単に口にできる面の皮の厚さは、今時っ子ならではだろう。慎みや礼儀を知らないわけではないが香椎はあえてそれらを無視した。孝一朗は頬を染めて頭を掻くとためらいがちにうなずいた。
「…うん。言葉にすると、なんだか照れるね」
「俺とも寝たし。でも…」
香椎の言葉に孝一朗はますます顔を赤くする。いまどき珍しいような純情さは人懐っこさとあわせて孝一朗の特徴にもなっている。正座している孝一朗とは逆に香椎はその姿勢を崩している。
「コウ先生は、俺と理事長を選べって言われたらどっちとります?」
とたんに孝一朗は心底困った顔をした。その表情は哀れを感じさせる上に今にも泣き出しそうだ。人懐っこい優しい山桃色の目がみるみる潤んでいく。うぅ、と唸りながら泡を食っている。渦を巻いているのだろう思考が読み取れそうだ。突き放すという選択肢もあったのだが香椎はあえて部屋に残るのを選んだ。ここで質問を取り下げてなんでもない顔をして眠ってしまえば孝一朗は次の朝には困ったような顔で、けれどなんでもないように向かい合ってくれるだろう。けれど孝一朗と一定以上の関係になると必然、理事長との関係は逃れられない問題だ。これでだめならだめでいいという捨て鉢な気分と孝一朗の泣き顔はやはり見たくないのだという感情とが、香椎を部屋へとどまらせた。
孝一朗の沈黙に香椎があきらめかけた時、孝一朗が香椎に抱きついてきた。勢いのあるそれは香椎を押し倒して床の上へ縫いとめた。孝一朗は相変わらず泣き出す一歩手前のような顔で口を開いた。
「リジ先生はさ、確かに大切だけど、でも香椎君だって大事だよ。君は俺が見つけた子だし! 俺がこの島に呼んだんだよ」
「ほかにもいっぱいいるでしょ」
冷静に切り返す香椎に孝一朗は目を潤ませながらも唇を尖らせた。
「でも! 君は、俺が見つけて――抱いた子なんだ! それに」
孝一朗の指先がそっと香椎の髪を梳いた。ふわりと、微笑する。
「君は、わがままでこんなこと言いだす子じゃないから」
香椎の眼がゆっくりと見開かれていった。
香椎は髪を脱色して金髪にしている。地毛が金髪であるラングレイのそれより少しくすんだ色合いのそれ。洒落た眼鏡や服装、言葉遣いや仕草。香椎の外見は一見すれば軽薄ともいえるそれで、香椎自身もそれに見合う行いをしてきた。実家の職業を思い合わせた年長者に眉をひそめられることもあったが意に介したことはなかった。それら外壁がすべて剥げた気が、した。
「君のものになるって言えない。俺のものになれなんて言えない。でも俺は、君が好きだ」
孝一朗の目は潤んでいたが、濡れてはいなかった。凛としたそれはどこか懐かしいような気さえした。
「…好き、だけじゃ…どうにも」
絞り出すような香椎の声に孝一朗は悪戯っぽく笑った。ちゅ、と音をさせて頬に唇をのせる。
「うん。だから――」
「今日は俺の部屋に泊まってくれないかな?」
お伺いを立てる孝一朗まなざしは温かくて香椎はこらえきれずに笑った。
頬を寄せる孝一朗の仕草はどこか、犬が鼻先をくっつけるのに似ていた。香椎はくすぐったさに体を震わせながら喉を反らせた。
「理事長は」
「今日は行かないよ、絶対に」
孝一朗がネクタイを緩める。ボタンをはずして現れた喉に香椎の指先が触れた。とがった喉仏。孝一郎が笑むたびに、話すたびにかすかな震えを起こすそこ。人体の急所である喉を好きに触らせる孝一朗に香椎はにやりと笑んだ。孝一朗はそれを認めて笑い返してから、香椎の喉へ噛みつくように口付けた。
「香椎君は、怖いね…リジ先生よりずっと怖いよ」
「俺、ただの生徒ですけど」
孝一朗の指先が香椎の皮膚に触れ、香椎は孝一朗の背に指を這わせた。振動がダイレクトに伝わり、その震えはどちらのものなのか区別がつかなくなる。指先がそっと香椎の眼鏡をはずした。裸眼をまっすぐ射抜くように見つめる。香椎はそれを黙って受けた。
「ごめんね。俺には相手を選ぶだけの権限はないんだ。ごめんね。でも今は――俺は、君といる」
香椎はゆったりと微笑した。腕を伸ばして孝一朗の体に抱きつき、背中に爪を立てた。
甘く痛む返答に孝一朗は笑むと唇を重ねた。触れ合った箇所から融けるような感覚。皮膚の滑らかさと体の深部に眠る熱。孝一朗は丁寧にそれらをたどった。
君の言葉で絶える
君のすべてで再生する
【了】