切り抜かれた孤独と溢れる暖かさに
69:切り抜かれた闇
ごろりと濡れ縁に横になる。視界に夜空が映らず、景時はズルズルと体を動かした。横着した所為か先が見えず気づいたときにはがくんと頭が落ちた。踏み石にごつんと後頭部をぶつけた。けれど視界には満天の星空が映った。打撃の影響ではない星空は生きているように瞬く。軒先を境に眩しいような星空と闇とが同居していた。直視できない太陽と違って月は眺められることを前提としているかのように輝いている。
景時はそっと両手を持ち上げると夜空をおさめるかのように指先で四角を作る。指の枠が夜空を切り抜きまるで絵のようだ。片手を裏返して作るそれを教えてくれた少女は楽しげに語ってくれた。写真というそれはとても精密に対象を再現したものらしい。爪先一つ、髪の毛一筋も違わず、その影までも再現できるのだという。まるで精密な絵だよ、と少女は教えてくれた。しかも焼き増しと言う行為を行えば寸分違わぬものが何枚も出来るのだとか。だからよく思い出の品になるの、と少女は懐かしむような眼差しを景時に向けた。愛しい人の姿を、そっくりそのまま持ち歩けるんだよ、と力説してくれた。
「写真、かぁ…」
景時はそっと指先を離した。夜空が風景にみるみる融けていく。たとえ絵みたいなものでも、愛しい人の姿がいつも見れるのって嬉しいでしょ? と拳を握って同意を求める姿は微笑ましいものだった。もしその写真という技術があったら、誰の姿を自分は持ち歩くだろうと思う。
ギシギシと軋む音に顔を向ければ人影が二つ遠慮がちに景時の方を窺っていた。小柄な方がツカツカと近寄って寝そべる景時の元へ膝をついた。
「ヒノエくん」
「寝てるのかと思って遠慮しちまったよ」
「ヒノエ!」
咎めるようなそれに返事をしようとしたときもう一つの人影が駆け寄ってきた。いつも一つに結い上げている長い髪を遊ばせている。焔色のそれは夜の帳が下りた今でも月光を浴びて艶を放つ。ヒノエの方を見れば普段は結っている髪を結っていない。二人とももう就寝するところだったのかと思わせる格好だ。現に二人がまとっているのは夜着だ。
景時が体を起こす。景時自身ももう後は眠るだけだ、夜着に着替えていた。
「珍しいねぇ、ヒノエくんと九郎が一緒なんて」
「会いたくもないのに会うのさ」
「それはこちらの台詞だ! 俺は景時に会いに来たんだ!」
「オレだって同じだよ、独り占めなんかするもんじゃない」
ヒノエの言葉に九郎が噛み付き、ヒノエはそれを何でもない風に受け流した。
琥珀色の瞳がヒノエを睨み、ヒノエもその紅い瞳で睨み返した。ヒノエが馬鹿にしたように前髪をかき上げて見せるのを九郎は歯噛みして見ている。ヒノエは仲間内でも口が達者だ、口論でヒノエに勝てるのは弁慶くらいだろう。
「…ッ、お前こそ、こんな時間になんだッ! 俺が来なければ何をするつもりだったんだ!」
「オレはせっかく到来した機会を見逃すほど野暮でも馬鹿でもないからな、それなりのことをね。けどあんたがそれをどうこう言う資格はないんじゃないの」
九郎が何か言いたげに唇を震わせる。その手足が何か言いたげにばたついた。それでも何とかやり過ごしたのか九郎は大人しくヒノエの横に膝をついた。
「…何をしていたんだ、景時。寝ているのかと思った」
「あぁオレも訊きたいね。お前の憂い顔は色っぽいから気になるぜ」
二人の言葉に景時が苦笑しながら髪を掻いた。海水の色にも似た青緑の髪がパラパラと揺れる。海面に映る月のように仄白い艶がある。同じ色のはずの瞳は夜の暗さで瑠璃のようだ。鎖骨の間に嵌まっている宝玉と皮膚の上の紋様が艶かしく浮かび上がる。
「写真のことを思い出してたんだよ」
「写真? あぁ、姫君が言ってたあれか」
ヒノエが承知したように頷くと九郎が身を乗り出した。
「なんだ、写真とは」
「すっごく精密に再現された絵みたいなものなんだって。夜の景色とかも映せるって言ってたからさ」
「なんだい、それが欲しいのかい」
片眉だけピクリと上げてヒノエが景時を見た。ヒノエは若輩ながら一軍を率いる能力の持ち主だがさすがに神子の世界のものには手が出ない。景時はけらけら笑って首を振った。
「違うよ、写真は四角いって言ってたからどんなものだろうって思っただけ」
「…俺は」
九郎の琥珀色の瞳が真っ直ぐ景時を射抜いた。
九郎は時折まるで焔のようだと景時は思う。その勢いは周りを侵略する。けれど人々はそれを必要とさえするのだ。下手に手を出せば怪我は免れない。それでも人々はそれを求めずにはいられないのだ。痛むような目をして景時は九郎を見た。
「なに、九郎?」
その焔にいっそ灼かれてしまいたいと思うのは、罪だろうか。
「俺はお前の写真を持ちたい。いつも共に、ありたいと思う。そして俺の写真をお前に持たせる。俺もまたお前と共にありたい」
景時の目が見開かれていく。ターコイズのそれが揺らめく。ヒノエは景時の方へ視線を転じた刹那に思わず手を伸ばしかけた。そのまま倒れてしまいそうな揺らぎだった。
「九郎…」
「ちょっと待てよ、一人決めしないで貰いたいね。オレだって景時と共にありたいと思ったっていいだろ?」
「ヒノエくん…」
景時の方を見たヒノエが思わず指先を強張らせた。景時の眦から涙が滑り落ちた。月の明かりに照らされたそれはひどく稀有なような尊いような気がした。九郎は視線を外さずに真っ直ぐ景時を見ている。ヒノエはその縛りから抜け出そうともがくように手を伸ばした。景時の濡れた頬を拭うと口付ける。景時が弾かれたようにヒノエの方を見た。
「なんだい、泣いてるから慰めてやろうってのに」
「いいよ、オレだって子供じゃないんだから…!」
真っ赤になる景時のようすに肩を震わせて笑った。景時は慌しく涙を拭っている。
「だいたいヒノエくんの方が年下じゃない、なんでオレが慰められるのさ」
「泣いてるご婦人と景時は放っておかない主義なんだよ」
「なんでそこにオレが入るの?」
さらに口付けようとしたヒノエの身体ががくんと止まる。口元を歪めるように笑ってヒノエは目線を後ろへ振り向けた。ヒノエの夜着を九郎の手が引っ張っている。抗議するような強いそれにヒノエはフンと笑った。
ヒノエにされるままになりながら景時の目線は夜空の方へ転じている。それを九郎とヒノエの目線が追った。円く輝く月。日にちによって満ち欠けする月や夜空の星星を読む生業に景時が就いていたことは風聞で知っている。
「月が珍しいかい」
「…あの月の中に落ちていけたら、いいだろうね」
ヒノエと九郎が意味ありげに視線を交わす。景時は飄々としていながら周りを気遣う。それでいて驚くほど己自身のことに関しては無頓着といっていい。怪我やこうむる被害を省みることはないそれは、時にひどく破滅的だ。要するに自分自身に対して無頓着だ。好意も悪意も受ける。己が受ける傷などかえりみることもしない。
「太陽は燃えてるんだって、言ってた。だったら月は燃えてないのかな。あの白い中に落ちていけたらどんなにかいいだろうね…」
ヒノエは空疎にそれを笑い飛ばした。
「そうしたらオレが引き上げてやろうか」
景時が微笑した。壊れ物のような儚いそれにヒノエの言葉は喉の奥で摩滅した。何か言葉をかけないと景時はきっと手の届かないところへ行ってしまう。上辺を飾り立てる言の葉はなんの意味もない。それを理解する聡明さがヒノエを寡黙にした。達者なはずの言葉が出ない。もどかしいようなそれはまだ自分の幼さを露呈させた。
伸びた九郎の手が景時の胸倉を掴み上げた。殴りかかるのかと思えるほどの勢いのそれ。ヒノエの手から景時を取り戻した九郎は景時を睨みつけながら言い放った。
「いいか、俺はお前を落としたりしない、引き止める! 俺の手の届かないところへやるつもりはない!」
叱咤するようなそれに景時の眇められていた目が見開かれていく。満ちた端がぷつりと途切れて涙が流れた。景時の白い頬の上を温い雫が滑る。
ヒノエは嘆息して立ち上がった。景時の短髪をくしゃくしゃとかき混ぜるように撫でる。
「ヒ、ヒノエくん?」
その額に口付けてからヒラヒラと手を振った。
「今日は譲ってやるよ、一つ貸しだぜ。おやすみ景時」
呆然としている景時の視界からヒノエはあっさり姿を消した。九郎はそれを目線でだけ追うとすぐに景時の方へ圧し掛かる。
「俺はお前を手放すつもりはない! 誰が、相手でも」
九郎の手が景時の夜着のあわせをくつろげた。現れる胸には紅い鬱血点が散っている。それが何なのか判らないほど九郎だって子供ではない。景時が頼朝によく呼びつけられるのは何でもないことだと周りに認識されているのをいいことに、頼朝は景時を呼びつける。景時は初めておびえたように九郎を見た。頼朝の呼び出しは九郎が近くにいるほど頻繁になる。見せ付けるようなそれの真意に気づかないほど九郎も景時も馬鹿ではない。絶対服従を求める頼朝は散々無理を景時に強いた。景時は時に隠れて涙しながらそれに従った。そうするしかすべを知らなかった景時を掻き抱いたのは九郎だった。その温もりは景時の体を緩めた。強張った苦痛を九郎の温もりは和らげ緩めた。
九郎の眼差しが一瞬泣き出しそうに濡れた。
「…けど俺は、兄上と同じことやそれ以下のことしかしてやれない」
財力も権力もあるいは経験すらも兄である頼朝の方が上だ。それを悔やむ九郎に景時が笑いかけた。泣き笑いのようなそれは美しく。
「ごめんね、九郎にそんなふうに思わせて…でもオレも九郎、が」
溢れた涙が頬を伝った。濡れた頬を摺り寄せられて九郎は泣きたくなった。ただ染み入る無力感から逃れようと九郎は景時を押し倒した。よく磨かれた濡れ縁の艶が月明かりを反射する。景時の皮膚はその妖しさすら呑みこむようだった。抱かれ慣れて色を吸った妖しい体を九郎は組み敷いている。それでいて詫びるように零れる景時の涙は清冽に美しい。
震えて景時の胸に顔を伏せる九郎の長い髪を梳くように撫でてやる。見上げた夜空は変わらずそこに。指で区切れたように四角く空間をくりぬけたならどんなにかいいだろう。ただ互いに己の無力に泣くだけだ。写真は空間をくりぬいたみたいなんだよと明るく笑った神子の声が響いたような気がした。空間をくりぬけて二人きりになれたら。
「あぁ」
ため息のように漏れた声は泣き声に変わり、嗚咽を堪えきれなくなる。互いの無力にただ、泣く。くりぬいた夜空はどこへ行くのだろう。所詮まやかしの気休めに過ぎないのだろうか。景時の視界で夜空の星星は滲んで融けた。
《了》