君の声はどんな歌よりも甘く
67:酒場の歌姫
照明の落ちた室内は微睡みのような心地好さで満ちている。透明なグラスを揺らすと氷がカランと鳴った。口に含んだ酒が喉を通って胃の腑へ落ちていくのが判る。容姿も悪くない女性が麗しい声を響かせている。でしゃばらない声だ。耳の奥で鈴を転がすように聞こえてくる。
グラスを呷りながら黒髪を見つけて黒鋼のことを思い出した。うなじもあらわに切られた黒い短髪。鋭い瞳は紅く目を惹く。無愛想で言葉も乱暴なくせに目端が利くし気遣いもさりげない。人が気づかないようなところにまで気を回し、相手にそれを気付かせないだけの器量がある人間だ。その性質を知っているのかいないのか共に旅をする少年と少女は黒鋼に良く懐いている。ファイだって黒鋼のことを悪く思ったことはない。粗暴な言葉とは裏腹に手を上げることは滅多にない。自分の力量をよく承知している証だ。黒鋼は一行の中で一番体格もいいし力もあるだろう。
「あーぁ、鋭いようでいて鈍いんだからなぁ」
「誰がだよ」
響いた声にファイはグラスを取り落としそうになった。弾かれたように振り返ると怪訝そうな顔をした黒鋼がいた。黒髪は部屋の中の薄暗さに融けている。睨みつけているかのような紅い瞳。衣服はこの国に来て調達したものだ。彼の長身を包み込み、似合っている。
「黒たん、どーしたの? 珍しいねぇ、こんなとこに来るなんてさ」
狼狽に気づかないふりをしてファイはへらりと笑った。隣へ黒鋼が腰を下ろす。さりげなく控える給仕に黒鋼が短く注文を伝える。この国では幸いなことに言葉が通じるらしかった。
出されたグラスを舐めるように味わっている黒鋼の様子にファイの顔が緩む。
「牛乳の方が良かった?」
「…ぶん殴るぞ」
黒鋼が牛乳を苦手と知っての上での発言だ。ファイはケラケラ笑いながらグラスを空けた。ファイの揶揄を受け流した黒鋼は酒を舐めている。
「二人は」
「寝てる。何時だと思ってんだテメェは」
睨むように見られてファイは外を窺った。気づけば外はもう闇が降りて明かりなしでは足元もおぼつかないほどだ。カウンターの上に黒鋼が持ってきたのだろう明かりがあった。
「あはー、時間食いすぎちゃったねぇ」
黒鋼は何も言わない。不意に降りた沈黙を酒場の歌姫の歌が埋めた。可愛らしい声が高く響く。ファイの方を見ようともしない黒鋼の様子にファイは気づかないふりをしながら軽口を叩いた。
「綺麗な声だねぇ、二人とも寝たんならさぁ飲もうよー」
「お前、何か心配事でもあるのか」
単刀直入な黒鋼の言葉にファイは言葉を失う。その沈黙をどう受け取ったのか黒鋼は視線をずらして口を開いた。ファイは誤魔化すように酒を口に含んだ。
「昼間っから空元気な気がしてた…違うなら、それでいい。ただお前は――」
黒鋼の言葉を止めようとファイはその唇をふさいだ。ついでに含んでいた酒を黒鋼の口腔へ流し込む。灼けるようなそれに黒鋼が激しく噎せた。喉を灼く強い酒に黒鋼の目に涙が浮かんでいる。
咳き込む黒鋼をよそにファイは歌姫の方を向いた。共に旅するさくらより若干年上だろうか。見た目も悪くない。
「カーワイイねぇ、黒ぴーは。お酒で噎せちゃってー」
「誰の所為だ、テメェ…!」
黒鋼の喉がヒューヒューと鳴っている。背中を丸めていた黒鋼の上へファイが圧し掛かる。黒鋼と比べてファイは細身だ。腕力より早さや機転で勝負する性質の体つきだ。黒鋼の力ならばはね退けるのも簡単だろう。もとよりファイはだめもとで抱きついている。
白い指先が黒鋼の喉から鎖骨へおりていく。
「黒たんの声、好きだな…ここの歌姫より好きかもしれない。すごく響くんだよ…たまらない」
歌姫のことを言われて黒鋼が初めて気づいたようにそちらを見た。その隙を縫って唇を吸った。黒鋼が耳まで真っ赤になってファイを押し退けた。その反応にファイはけたけたと笑う。壊れたようなそれに黒鋼は目を眇めたが何も言わなかった。
「酔ってるんなら帰るぞ」
「照れてるの?」
黒鋼の腕がファイを立たせる。その足腰が酒の酔いで砕けた。ふらつくファイを黒鋼がとっさに支えた。
「あれぇー、予想以上、みたい…」
「馬鹿野郎」
腋の下をくぐらせる腕に縋りつくと黒鋼がすぐさま抗議した。体を支える体勢の都合上どうしても体が密着する。黒鋼の鼓動が伝わってくるような気がしてファイは余計に体を押し付けた。黒鋼が気づいて抗議しようとするのを緩んだ笑い顔で封じ込めた。酔っ払いの戯れとでも決着をつけたのか黒鋼は何も言わなかった。
「ねぇ黒」
黙り込んだ黒鋼に声をかけたファイの唇がふさがれた。眼前に広がるのは黒鋼の顔。触れているのは酒で湿った黒鋼の唇だ。無防備にさらした舌に絡んだ舌からは酒の味がした。少し甘い。すぐに離れていくそれがひどく貴重だったのだと遅ればせながら気づく。
「黒様」
「――ッうるせぇ、帰って寝るぞ!」
照れたように真っ赤な黒鋼の顔が嬉しかった。こみ上げる嬉しさにファイの表情が緩む。
「嬉しいよぉ黒様ー! 子守唄歌ってぇー」
調子に乗ってしなだれかかるのを振り捨てそうな黒鋼にファイはしがみついた。
「離せ、酔っ払い! テメェなんか構うんじゃなかった…!」
「えぇひどいよぉー! ねぇお願いだからー黒様ー!」
しがみついて懇願する優男とそれを邪険にする男の二人連れは通行人の目を引いた。ファイのほうに態度を変える気がないのと周囲の反応を見て取った黒鋼が折れた。
「…一緒に寝る。それでいいだろ…子守唄は勘弁しろ…」
「いいよー、じゃあ一晩中一緒だよ?」
ファイはへらっと全開の笑顔を見せた。優男のファイにはそんな仕草が妙に似合った。体格のいい黒鋼に支えられながら寝床のある宿へと帰る。ベッドの上に放り出されてなおぐたりと伸びながらファイは黒鋼の衣服の裾を離さなかった。
「一緒だよー?」
嘆息した黒鋼が外套を脱いでベッドへ入る。ファイの外套を手際よく脱がせていく。四肢を投げ出しながら心地好い気分の中でファイは笑った。
「ねぇ黒様ー」
「なんだよ」
外套を片付ける黒鋼の律儀さにファイが微笑む。
「黒様の声、もっと近くでもっといっぱい聞きたいな…泣き声とか喘ぎ声でも構わない」
意味深なそれに黒鋼が体を強張らせた。振り向く姿はねじ回しの人形のようだ。数瞬の逡巡の後、大きく息をついた黒鋼がファイのいるベッドへ腰を下ろした。
「好きにしろ」
「ありがとう、黒鋼」
吸い付くようにキスをしてファイは黒鋼の体をベッドに押し倒した。軋んだ音を立てるスプリングとこれから溢れるだろう黒鋼の声を思ってファイは笑んだ。紅い唇が弓なりに反る。
「ありがとう、黒鋼」
繰り返される礼に黒鋼はそっぽを向いて返事をした。
《了》