意外と、度胸ある?
66:きもだめし
夜の学校は静かだ。宿舎とそう遠くない位置にあるおかげか普通の学校ほどの恐ろしさはないが不気味であることに間違いはない。目の前をズンズン歩く九世を追いながら香椎はため息を吐いた。同室の九世が教室へ忘れ物をしたと言い出したのは夕食も入浴も終えた頃合だった。諦めろと取り合わなかったのだが取りに行くといって聞かない。挙句の果てについてこいとのたまう始末だ。頑としてはねつけた香椎に九世は爆弾を落とした。
「…歌詞」
「てンめぇ…!」
不注意から生じたそれが原因で香椎は九世に弱みを握られている。
その結果が現在の状況だ。男と子供の二人連れがのこのこと夜闇に満ちた校舎の廊下を歩くはめになっている。不満げな香椎の様子に九世は片方だけ眉を動かした。
「そもそも貴様は子供一人で夜に外出するのいうのが心配にならんのか」
「だから諦めて寝ろッつったじゃねーか!」
「こんな失態を放置できる性質ではない」
九世はクルンと前を向いて教室へ行ってしまった。もういっそ九世を置いて帰りたくなる。
「いいではないか、きもだめしだ。もっとも貴様に試すだけの肝があるかは知らんがな」
「ほっとけ!」
クックッと笑う九世に怒鳴りつけてから香椎は窓の外に目をやった。
自然が豊富なここは夜空も綺麗だ。星の瞬きが見える。仄白い月と対比も鮮やかな夜の闇。そこにぽつんと点滅する橙の光に香椎の身体がギクリと強張った。思わず九世を引きとめようとした喉が詰まる。さっきの九世の揶揄が効いている。そもそもなんで九世に年長の香椎が頼らなければならないのか。確かに九世の知識や技術は香椎のそれを超えている。けれど自分だって出来るという自負が香椎の足を向けさせた。入り口まで引き返して光の方向へ歩を進める。そう大きな光でない所為か時折視界から消える。星の瞬きとは違う点滅を追って香椎が顔を出すとそれが驚いたように目を瞬いた。
「香椎、か?」
響く低音に緊張していた香椎の筋肉が一気に緩んだ。
「ラングレイ先生…」
ラングレイの指先に引っかかっていた煙草がジジッと燃える音がする。何のことはない、煙草の火だけが見えてラングレイが見えなかっただけの話だ。手招きされて香椎はラングレイの隣に腰を下ろした。放られた煙草の箱から一本取り出すと火をつけた。緩んだのは筋肉だけでなく意識までも緩めた。
「一体どうした?」
香椎の口からふぅッと紫煙が吐き出される。
「九世につきあわされてただけッす」
「探してるんじゃないか」
ラングレイの言葉に罪悪感が芽生えたが揶揄されたことがまだ尾を引いている。たまにはその冷静さをかき乱してやりたくなる。
黙りこんだ香椎の様子にラングレイは表情を緩めると携帯用灰皿で煙草を消した。それを香椎に渡す。
「消せ」
言われるままに煙草を消す。灰皿を返そうと差し出した香椎の手首をラングレイが引いた。存外強いその勢いに引っ張られて体が傾いだ。唇が重なる。互いに喫煙した直後だった所為か、舌先にピリッとした刺激と苦味がある。
抱き寄せるラングレイの腕に香椎が爪を立てる。元軍人というだけあって綺麗に筋肉がついている。しなやかなそれがバネのように動くさまを想像した。白衣をまとっていないラングレイの姿はそれだけで珍しい。普段見れないものを見た快感が香椎を従順にした。稀有な環境とラングレイの様子とで気分が昂ぶっていることが知れた。ドサリと芝生の上へ押し倒される。それでも何を言わない香椎の様子にラングレイの方が不思議そうな目をした。
ラングレイの金髪とは違う、少しくすんだ金髪。上げている前髪がおりていて香椎が就寝するつもりだったことを示している。ありふれた茶褐色の瞳は夜闇を吸って黒褐色だ。そっと眼鏡を外されても香椎は身じろぎ一つしない。
「…抵抗しないな」
ラングレイの呟きの上に九世の声が響いた。思わず二人が息を詰める。夜の昏さは意外と深く二人の姿を消した。九世は諦めたのか、その足音や気配が遠ざかっていく。そちらに意識を向けていた香椎の唇が奪われる。九世の高い体温とは違い、安定した温さでそこにある。伸びた香椎の指先はラングレイの頬を撫で、髭やピアスに触れる。確かめるようなその動きにラングレイは声をひそめて笑った。
「嫌ならもっとはっきりはねつけろ」
「…不思議だけど、嫌じゃないッす」
「正直だな」
笑うラングレイの様子に香椎の頬が紅く染まった。それを振り払うように香椎がラングレイの唇に吸い付いた。つたないキスは香椎の戸惑いと自棄を起こした無謀さがよく現れていた。自棄になったときの積極性には舌を巻く。絡んだ舌が離れてつなぐ銀糸が月明かりで煌めいた。
真剣なラングレイの顔に香椎の背筋を電流のようなものが駆け抜けた。
「だったら手加減は要らないか?」
試すようなそこにはまだ逃げる余地があるかのようだ。香椎は唇を舐めるとラングレイの首へ腕を回した。しがみつくように頬を寄せて耳朶に甘く噛み付く。耳や首筋まで真っ赤になって囁く香椎の言葉にラングレイは優しく笑んだ。
「なんだか可愛く見えてくるな」
返事の代わりに香椎は深く口付けた。温い口腔。服の隙間からもぐりこんでくる手の感触に体を震わせながらラングレイの瞳を見た。天色の瞳は深い蒼に色を変えている。魅惑的なその目は優しく香椎を見つめてきた。
「一応、俺二十歳超えてるンすけど」
拗ねたような言葉にラングレイは声もなく笑った。絡めた腕から伝わる振動。ひとしきり笑った後にラングレイは襟や裾を乱してあらわな香椎の肌へ唇を寄せた。
「そりゃあ、悪かったな」
夜の闇に二人の体躯が融けた。境界線の曖昧になる快感に香椎は酔った。
《了》