不必要なそれに
理由はあるのか
64:魚の瞼
毛足の短い絨毯はそれでも上品に足音を殺した。屋敷は総じて飾り気がなく、シンプルだ。それでも敷かれた赤絨毯や調度品の類は上品で雰囲気を損なうこともない。どれも同じに見える廊下を一之瀬はゆっくりと歩いた。屋敷の主がいるだろう部屋の前に立つ。あっさりとして飾り気のない扉をノックすると扉が開いた。
気高く稀有な白髪は短く整えられ紅玉のように紅い瞳がそれこそ宝石のように嵌まっていた。顎に走る傷の由来は聞いていない。いつもは羽織っているロングコートを今は脱いでいる。その体躯が鍛えられたものであることを一之瀬は知っている。
「御用があると」
「用ってほどじゃあないんだが…」
狩矢が言葉を紡ぐのを一之瀬はじッと待った。焔色が舐めるように狩矢のシャツや髪を染めていく。仕草で促がされて一之瀬は部屋へ足を踏み入れた。
狩矢の紅い瞳が一之瀬を見る。襟がフードになったシャツの上から袖のない死覇装をまとっている。美しい紺碧の髪に鳶色の瞳。短く切られた髪はうなじの辺りを隠すように伸びている。真っ直ぐ見つめてくる瞳は子犬のように潤んでいる。彼が身じろぐたびに腰の斬魄刀がカシャンと鳴った。その名を虹霞という虹色をした刀身なのだと話に聞いている。その能力は打撃というよりは死神の術である鬼道に近いのだという話だったのをぼんやりと思い出した。
「くどいようだが用事って程のことではないのだかな…ヒマなら付き合ってくれないか」
「承知しました」
一之瀬はこともなげに言うと頷いた。そのあっけなさに狩矢が微笑する。狩矢の知る限りこの一之瀬が何事かを断っているのを見たことがない。狩矢に対してだけでなく万事に対して従順だ。諍いを嫌う彼の性質も影響しているのだろうがいっそ盲目的なほどのそれには感嘆する。
「いいのか?」
「構いません」
確かめるように問うた狩矢に一之瀬ははっきりとそう言った。腰の斬魄刀をするりと抜くと備え付けの椅子へ立てかける。自身の身を守るすべでさえあるそれをあっさりと手離す態度に狩矢はついに笑い出した。笑われている一之瀬にいたっては意味が判ってないのか不思議そうだ。小首を傾げる様子が妙に可愛らしい。
「座るといい」
狩矢が鷹揚に椅子を勧めると一之瀬はちょこんと座った。その目の前へ水差しから水を注いだコップを置いてやる。一之瀬が慌てたように立ち上がりかけるのを目線だけで押しとどめる。
「狩矢様、私がやります」
「私が呼んだんだ、少しくらいはもてなしをさせてくれ」
水差しから注がれる水はそれ自体が意思を持っているかのように軟らかだ。焔をちろちろと反射して煌めく。狩矢は窓辺にいくと一気に窓を開け放った。
部屋の焔色と夜闇の灰色が狩矢の白い髪の上で綺麗なグラデーションになる。開け放たれた窓から吹き込む風を孕んでカーテンがはためいた。狩矢越しに瞬く星星が見えて今の時刻を教えてくれる。物思いにふけるように窓の外へ目線を投げる狩矢の様子を一之瀬は辛抱強く待った。バウントという種は不死なのだという。その所為か狩矢は時折倦んだ老人のような発言をすることがある。一団を率いるものとしてのカリスマ性が二人きりになったおりに時折崩れることに一之瀬は気付いていた。
狩矢がゆっくりと振り向いた。そよぐ風がシャツの襟を揺らす。
「魚に瞼はないらしいな」
「…そのように聞いております」
一之瀬は慌てて席を立った。狩矢が壊れ物のように笑んだ。そこからはバウントを率いているとは思えない脆弱さがあった。
「何故だか判るか?」
「…夜になれば魚のいる水中も暗くなるためではないでしょうか」
一之瀬は持てる知識を総動員して答えた。けれど狩矢はその正誤など構わないかのように笑んでいる。
「なるほど、なかなか物知りだな」
「あっているかは判りません。ただ私がそう思うだけです」
狩矢はクックッと笑いながら一之瀬のもとへ歩み寄った。その指先が下顎を捕らえる。身長は狩矢のほうが高い。狩矢の指先がつんと一之瀬の顎を上げる。フワリと唇が重なった。
唐突なそれにそれでも一之瀬は拒否をしたりしない。狩矢についていくと決めたあの日から、全ては狩矢のものだと決めている。従順な一之瀬に狩矢は興味をなくしたかのようにあっさりと離れた。狩矢の指先が濡れた唇から頬に滑り首筋を撫でる。あらわな喉を気道に沿ってなぞる。突き出た喉仏に触れてから離れていった。
「面白い答えだ」
「ありがとうございます」
一之瀬は揺るがない。狩矢のほうが戸惑うように触れてくる。
困ったように狩矢が一瞬眉根を寄せた。狩矢は一之瀬など足元にも及ばないほど男性的だ。鍛えられた体躯は見るものを圧倒するし言動や仕草は洗練されているがどこか男らしい。鷹揚に構える彼の性質もそれを増長していた。腕力で彼に敵うのは、いつも後ろに控えている古賀くらいなのではないだろうか。古賀は狩矢に輪をかけたように雄の匂いがする。それは雰囲気や仕草といった面が。
狩矢の指先がシャツのボタンを外していく。シャツを脱ぎ捨てると一之瀬の腰紐に手をかけた。一思いに脱がせることも出来るそれを、狩矢はわざとのように時間をかける。一之瀬は死覇装を脱ぎ捨てるとフードのついたシャツにも手をかけた。
「素直だな」
「狩矢様にお仕えすると決めました」
一之瀬は真っ直ぐ狩矢を見た。それはどこか完成された視線。迷いも揺らぎも一切ないそれは無垢な子供。ただ目の前を盲目的に信じて疑いもしない。
「私は狩矢様のためなら何でもいたします」
「怒った顔も見てみたいものだがな」
「私が狩矢様に怒りを感じることなどありえません」
怒りとは相手に不満や期待を抱いたときに生まれる感情だ。一之瀬が狩矢に不満を抱くはずもない。そして期待も。それは残酷なのだろうかと一之瀬はふと思った。嫌うことと好きではないということはイコールではない。微妙だが決定的な違いはその積極性にあるような気がした。期待をしないということは失望しないという自己防衛だ。敬愛する隊長を失ってから一之瀬はその自己防衛を徹底してきた。
「なるほど、なかなかどうして、残酷だ」
一之瀬は返す言葉が見つからなかった。言われてみればその通りで言い訳も出てこない。
「申し訳ありません」
「謝ることではないよ、気にしなくていい」
狩矢が一之瀬をベッドに誘う。一之瀬はされるままにベッドへ体を横たえた。
「必要のないものは消えていくのだろうな」
それはそう、魚の瞼のように。必要がない、意味がない、用途がないものは廃れていく定めかと。狩矢が嘲笑うかのように薄く笑んだ。
そういう狩矢が妙に頼りなげで一之瀬は思わず声を荒げた。
「私には、狩矢様は必要です!」
一之瀬の鳶色の瞳が焔の色を吸って橙に揺らめいた。白い腕が狩矢の体を抱き寄せる。ガッシリとしたそれの拍動を一之瀬は聞いたような気がした。
「私には、狩矢様が必要なのです」
「…すまない」
狩矢が何に対して謝ったのかを知る前に重なった唇から伝わる熱に、一之瀬は酔った。
《了》