変わらない、優しさ
63:爪を噛んで泣く
夜の帳が下りて噴水が綺麗にライトアップされていた。手渡された缶コーヒーを受け取る。その隣へ昴流が腰を下ろした。青年期と少年期の境にあるような顔立ちだが神威より年長だ。警戒心の強い気質が惹きあったのか、仲間内でも神威と昴流はよく一緒にいる。抱えている悩みまでもが同質だということに神威が気づいたのは最近のことだ。
噴水の光が当たって神威と昴流の肌は仄白い光を帯びる。二人とも脆い陶器のような肌と雰囲気の持ち主だ。大きな瞳に小さな唇。二人とも髪を染めたり色を抜いたりはしておらず艶やかな黒髪だ。昴流は茶褐色の瞳で神威は淡い青の艶を持つ瞳だ。二人が似ているのは容姿だけではない。互いに旧知の想い人に振り回されているところまでそっくりだ。同じような悩みを抱えるものとして時には愚痴を言ったり助言したりを繰り返している。
「封真の奴…」
悔しげな神威の指先が自然と口元へ行き、形のよい爪を噛んだ。ぎちりとする音に昴流が目を向ける。苦しいような悔しいような顔をして神威はよく爪を噛む。癖なのか昴流が何度指摘しても直らない。
「神威、爪噛んでるよ」
神威が己の指先を見つめてからハァッと肩の力を抜いた。恥じるように指先をもじもじと動かしてから誤魔化すようにコーヒーを呷る。
「俺は元通りに封真といたいだけなのに」
潤んだような瞳と神威の心情に昴流の目が手元を見つめる。
昴流が憎しみと親しみを同時に感じる男は気まぐれに姿を見せて昴流の心をかき乱しては姿を消す。そう長くもない付き合いの仲で男は昴流の奥深くにまで入り込んでいた。白濁した右目と微笑を浮かべたような常態の顔。当たり障りのないそれが彼の処世術なのだと昴流は袂を分かった後に気がついた。男の痕跡は手の甲に残り、それは忘却を許さない。男を思い出すと感じる桜の香りや花弁はその季節になるたび昴流をさいなんだ。
「…どこからおかしくなったかなんて、判らないよ」
「…封真ぁ」
泣き出しそうに潤んだ瞳で呟く神威の言葉は昴流の心をも抉る。愛しい人が指先をすり抜けていってしまうやるせなさに二人が沈んだ。夜空の星が街灯の点滅にあわせて瞬いた。
「呼んだか?」
目の前に現れた封真の姿に神威が息を呑んだ。短く切られた髪はうなじもあらわで、背丈も神威や昴流よりある。しなやかに伸びた四肢は見苦しくない程度に引き締まっている。穏やかな微笑を浮かべる封真の姿に昴流は凍り付いていた。動かない二人に興味をなくしたのか封真が踵を返した。夜闇へ解けるその背中に神威の脚が地面を蹴った。
「神威!」
放り出された缶コーヒーの空疎な音が昴流の耳にいつまでも響いた。
目の前を駆け抜ける背中を追う。手を必死に伸ばしても指先が後一歩届かない。建物の隙間を通り自在に空間を駆ける背中を懸命に追う。昔から封真は運動神経がよかった。基本を教えれば応用まで一人で習得してしまう。神威のように華奢でもなく、だからといって粗野でもない。適度に悪いこともする性質だった。神威は封真と悪戯をして叱られた記憶だってある。殴られたこともある。悪戯が度を過ぎればそれなりの制裁のある家庭だった。甘やかされも放任もされない、普通の家庭だった。それを叩き壊したのは自分なのだという罪悪感が神威にはあった。運命を選んだその刹那から、封真は神威と相対する位置へいってしまった。
「ま…ッて、封真、封真!」
壁を脚が力強く蹴る。伸ばした指先が封真のシャツを掴んだ。飛んだ勢いそのままに建物の屋上へ倒れこむ。音をさせて滑る背中がやっと止まった。砂塵が二人を包む。咳き込みながらも神威は掴んだ封真のシャツを離そうとはしなかった。神威の肩が上下に揺れている。
腕を一振りすれば吹き飛びそうな小柄な体躯。それでも封真はその一振りが出来ずにいた。神威の拘束など解くことは造作もない。神威は小柄だし目方もない。身長も体重も封真のほうが上だ。何より神威の能力の目覚めは不完全だ。封真の方が能力を使うすべを知っている。それでも弾き飛ばせるそれを意識のどこかが留めていた。
唇を寄せてくるのを押し返す。シャツの襟を緩め、裾の隙間から手を滑り込ませてくる。それを振り払う。それでも封真の抵抗はおざなりになりがちだった。本気で抵抗すればいいと判っている。その抵抗を鈍らせているのは神威の表情だ。細い眉が寄り、今にも泣き出しそうだ。神威の泣き顔には幼い頃からなぜか封真の罪悪感を刺激した。
「ふう、ま…な…んで…?」
神威の細い首へ指先を伸ばす。泣き出す直前のような振動を感じる。零れ落ちそうなほど大きな瞳が潤んでいる。零れそうになる涙を拭う指先を噛んで声を殺していた。ぎちぎちと爪を噛む音が妙に耳に響いた。不愉快なことや承服できないことに泣くとき、神威はいつも爪を噛んだ。それは幼子の必死の抵抗だったのだろう。
「ふぅ…ま…」
華奢な肩が震えた。あふれ出る涙が封真の頬へぽつぽつと落ちた。神威は封真の上に圧し掛かったまま泣いた。唇を寄せたり手を滑り込ませたりした乱暴など感じさせない。なんだか一方的に悪いような気がして封真は微苦笑を浮かべた。ひくひくと神威がしゃくりあげる。神威を泣かせたときにはよく妹が怒っていたことをぼんやりと思い出した。
「神威」
慈愛に満ちた封真の呼びかけに神威が応えた。緩めた襟を一気にくつろげる。封真のその首筋へ神威が噛み付いた。皮膚を裂く痛みと熱が一気に封真の全身へ広がった。脈打つような痛みを感じるだけで後は感覚器官が麻痺したかのようだ。食いちぎられるかもしれないという懸念が頭をよぎる。そのくせ神威を引き剥がそうともせずされるままになっている。
神威の荒い呼吸音が封真の耳朶を打つ。紅い唇が血の色に染まって毒々しいほど紅い。顎まで伝う血液が艶かしかった。
「ふ…ま、封真…!」
血を吐くような叫びに封真は唇を寄せた。舌先に鉄の味を感じる。それに笑いながら封真は神威と深くキスをした。封真の手がシャツの前を破り開いた。シャツの裂ける音に神威がはっとする。現れた体躯は神威のような神秘性ではなく肉惑的な色香がある。健康的な色艶をもつ皮膚に引き締まった腹。
「どうする? 今なら俺を殺せる」
封真の胸は無防備に晒されている。そこへ刃を突き立てたなら簡単に命を絶てるだろう。神威の指先が震えて封真の心臓部へ触れた。鼓動する心臓がそこにある。その震える指先を封真は哂うように口に含んだ。熱く濡れた封真の舌先の感触に神威の背筋が震える。
「殺さないのか? 障害は、ないほうがいいだろ?」
それを振りほどいて神威は封真に口付けた。触れるだけの優しいそれに封真が目を見開いた。
「俺は、お前を殺したいわけじゃない…ッ!」
細い喉が震えた。溢れる涙が封真の上へ降り注ぐ。肌にしみる温い体液の感触に封真は目を眇めた。子供がむずがるように頭を振って神威は泣き叫んだ。
「俺は封真を取り戻したいんだ、殺したいンじゃないッ!」
「お前が殺さないら俺が殺すかもしれないぜ」
弾かれたように見開かれていく神威の大きな瞳。
その表情に封真は全身が軋むような気がした。体の繋ぎ目がばらばらに解けていく感覚。断ち切られた神経は伝達せず四肢はばらばらに動く。意識の離れたその動きに封真が戸惑った。目の前で神威は声を泣き声を殺そうと指を噛む。指先を噛む歯は爪を引き千切る。変わらないその癖に封真が微笑した。その指先を掴んで引き剥がすと噛み付くようなキスをする。唇を舐めてやると感じるのはさっき噛み付いたときの封真の血だろうか。苦い鉄の味。それだけが変わらない。泣き出したくなるようなそれ。
「ふう、ま」
離れた唇。目の前で笑う封真の顔が泣き出しそうな気がして神威は顔を歪めた。泣き出すのを堪えるとき決まって封真は微苦笑を浮かべた。困ったように笑う。心の中のせめぎ合いに戸惑うように笑った顔はいつまでも神威の目蓋に灼きついた。
「爪を噛む癖は変わらないんだな、昔ッからそうだ…」
痛むような懐かしむような口調に神威の目が潤む。その裸の胸へ額を寄せる。溢れる涙が止まらなかった。
胸にしみる神威の涙に封真は夜空を見た。街灯や建物の明かりに負けて星空はほとんど見えない。それでも目蓋の裏に満点の星空が広がった気がした。
「俺は、お前を取り戻したい…だけなんだ」
震える神威の声。封真は空疎な気分でそれを聞いた。あぁ、俺なんてどこにいるだろう。どこにあるだろう。それでも追い求める何かがあることはうらやましいと同時にひどく妬ましかった。俺には何もない、何も。
「ふぅまぁ」
神威の泣き声に封真は目蓋を閉じた。このまま胸を貫かれても構わないとさえ思う。それでも神威はしがみついてくるだけだ。無理やり情を交わすこともしない。身体に穿たれた空隙が封真の体をさいなんだ。あぁ、神威、お前が欲しい。灼熱に貫かれることを望みながら封真は神威の黒髪を梳いた。
《了》