気の抜けないやり取りの中で
得られるものは確かに
60:狐と狸の騙しあい
夜が更けてりりりと虫が鳴いた。夜闇は不意に忍び込んで思わぬところでその姿を現す。ちろちろと燃える焔の明かりが板張りの床を舐めた。とくとくと酒を注ぐ音が妙に響く。杯を空けるのは二人の青年だ。うちの一人は少年といってもいい背格好だ。
燃えるような紅い髪と柘榴石の煌めきを放つ瞳。その額には紅玉がぽつんと嵌まっている。利かん気の強そうな顔立ちでこの年齢にして一軍を率いているだけの才が窺える。その顔が苦々しげに見つめるのはその隣に座っている青年だ。頭からかぶる黒い外套を今は脱いでいる。金茶の髪が明かりを反射してキラキラと輝く。茶褐色の瞳は穏やかで聡明。何か言いたげなヒノエを何事もなかったかのように微笑して眺めている。二人の手には杯があって透明な酒がそれを満たしている。ほのかに甘く香るそれは高級なものだ。
ぐいっと酒を呷ってヒノエが音を立てて杯を置いた。
「あんた相手に腹芸ってのも無謀な話だけどさ…実のところどうなんだい」
弁慶はゆっくりと杯を干してからにっこりと微笑した。その所作は彼がかつて百戦錬磨の荒くれだったとは微塵も感じさせない。
「そうですね…まぁ、君と同じ、とでも言っておきましょうか」
ヒノエがクッと笑う。酒瓶を傾けながらヒノエが愚痴るように呟いた。
「だろうな。これであんたとあいつがいい仲だってんなら俺は引退するよ」
「僕もこれで彼が君といい仲だったら田舎へ引っ込みますよ」
二人が同時ににやりと笑った。
「問題は九郎だな」
「あれで鈍いところがありますからねぇ」
ヒノエは大きく伸びをしてごろりと寝そべった。髪や衣服についた装飾品がシャラシャラと音を立てた。ヒノエの瞳が夜空の月を映す。弁慶は杯を満たす。そこに月や星星が映りこんだ。弁慶はクスリと笑うと杯を干した。映った月や星星が弁慶の唇の間へ流れ込んでいく。
「まったく、俺が代わりたいくらいだぜ」
「やきもきしますからね、彼らを見ていると」
ヒノエが弾かれたように勢いをつけて跳ね起きると杯を目の高さまで掲げた。
「到来した機会に乾杯」
その言葉に弁慶が体を乗り出すと目元をうっすら染めた青年が立っていた。
「景時?」
「よぅ、こんな夜更けにご挨拶だな。さっさとこっちに来いよ」
「ごめんね、邪魔だったかな?」
いそいそとにじり寄ってくるのは深い海面の色をしたターコイズの短髪の青年。普段は上げている前髪がおりているところを見ると就寝が近かったのか。天河石のように煌めく瞳は目尻が少し垂れて人懐っこく笑う。鎖骨の間のくぼみには待った宝玉は彼の瞳と同じ色に煌めいた。
「邪魔だったかい」
「俺がお前を邪魔にするわけないだろ? 冗談はもっと笑える奴にしてくれよな」
「邪魔だなんて、そんなことはありませんよ。景時さえよければ一緒にどうですか」
景時はヒノエに誘われるままに弁慶とヒノエの間に座らされた。二人よりはるかに長身な景時は困ったように体をちぢこませる。ふわんと香るのは酒の香。うっすら紅く染まった目元やふわふわとした居住まいに彼が相当酔っていることが窺えた。
弁慶が準備よく杯を差し出すとヒノエが酒を注ぐ。景時は嬉しそうに笑んで杯に口をつけた。前髪がおりているだけで景時の実年齢よりずっと歳若に見える。
「もう飲んだんですね」
「九郎と飲んでたんだけどねーずいぶん進むなぁって思ってたら潰れちゃってね」
「単純な奴…」
ヒノエがこっそり悪態をついて景時ににっこりと笑顔を向けた。
「じゃあ俺達と飲もうぜ? まだ潰れるには早い刻だろう」
「僕たちでよければお相手しますよ」
「ありがとう、一人で飲むのも嫌いじゃないけどやっぱりみんなで飲んだほうが楽しいもんね」
景時の全開の笑顔にヒノエはうっすら頬を染めた。弁慶は平然と酒を勧めている。
「若いですね」
「うっさい!」
クスリと笑う弁慶の言葉にヒノエが噛み付く。景時は不思議そうに二人を見るだけだ。ちろちろと酒を舐める舌先が覗く。その紅さが妙に目の裏に灼きついた。
「おいしいねぇ」
ヘラリと笑う景時に他意はない。弁慶は自分も飲みながら上手い具合に景時の杯にも注いでいく。景時は恐縮しながらそれを受け、ありがとうと笑った。
ヒノエが杯を干したところで景時が酒瓶を差し出す。
「オレからのお酌で悪いけど」
「悪くなんかないぜ。上等だ」
景時が注いだ酒をヒノエが一気に呷る。美味い酒は意外と強い。くらりとゆがむ視界にヒノエが飲みすぎたかと懸念したそばから景時の体が傾いだ。
「景時!」
気付いた弁慶とヒノエが同時の手を伸ばして景時の腕や衣服を掴んで倒れるのを引き止めた。くたりと力の抜けた腕がヒノエの手の中で息づいていた。
「景時?」
顔を覗き込んだヒノエがこらえきれずに笑った。弁慶は一瞬首を傾げたが景時の顔を覗き込んでフッと笑んだ。
景時は眠っていた。弁慶とヒノエが二人がかりでそっと体を横たえるのにもされるがままだ。ヒノエがそっと顔を寄せると景時のもつ香がフワリと香った。ヒノエの顔が緩んで笑いをかたちどった。
「ったく、のんきに眠りやがって」
猫のようにごろりと寝返りを打つ景時の髪をそっと梳いた。
「可愛い猫だな」
ヒノエが唇を寄せる。景時の末端器官は火照って熱を帯びている。唇は人肌に温んで温かい。弁慶は一瞬驚いたような顔を見せたがすぐに笑んで景時の手の甲へ唇を寄せた。
「まったくですね」
桜色に色を帯びた爪先へ唇を寄せながら弁慶も同意した。
「これくらいは役得だろうな」
「やれやれ、ですねぇ」
景時の閉じた目蓋をヒノエがぺろりと舐めた。景時がうぅんと罪なく呻くのを二人が微笑しながら見つめていた。零れた酒を彼らの誘われた服の裾が吸った。
《了》