噎せるようなそれは肺を圧して


   57:雨がやんだにおい

 夕方頃から危うかった空模様は夜半になって不意に雨を降らせた。重く垂れ込めた雲が空を低く見せる。雲に月や星星が隠されて夜闇は平素のそれより深く黒く見えた。降り出した雫が肩や腕を打つ。衣服は重く濡れて黒味を増した。空き家の軒先を見つけて飛び込んだ。所用を終えて帰る頃には重く垂れ込めるだけだった雨雲はキュリオが家に帰り着く前にその雫を零した。不意に降り出した雨に誰もが泡を食っていた。
 大切に守ってきた少女の喪失と引き換えに得た安寧。事件が決着を見た頃キュリオは上げていた前髪を下ろした。鳶色の髪は濡れてうなじや額に張り付いた。その少女を守るためについた傷でキュリオは隻眼になった。深いそれはキュリオの目蓋を閉じたままにした。眉の上から走るそれはキュリオが興奮したりすると肉色に浮かび上がる。濡れたい服が張り付いて気持ち悪い。ここまで濡れてしまえば後は同じと腹をくくって帰ろうとした瞬間、隣に人影が飛び込んできた。白いシャツと黒のズボン。前政権の頃にはよくまとっていた黒色のマントを今はまとっていなかった。
 艶やかな黒髪はしっとりと濡れてその艶をまざまざと放つ。深い蒼色の瞳はキュリオを見てにやりと笑った。黒髪の先端からぽとぽと雫が滴っている。うなじを隠す程度にまで長い髪はヒタリと張り付いてなりを潜めていた。
「奇遇だな」
「降られたのか」
「お前と同じだ」
ティボルトは肩をすくめて自身の体を指した。白いシャツが濡れてティボルトの肌が透けていた。乳白色の肌は官能的だ。走ったのか少し上気した頬が紅い。
 キュリオは何故だか目のやり場に困ってティボルトから目線を外した。濡れて張り付いた前髪をかき上げる。ティボルトの方がそれを見透かしたのかフッと意味ありげに笑った。二人で急ぎ足に立ち去る人の流れを見るともなく眺める。突然の雨は時間帯も悪く店も開いていない。濡れて帰るか軒先で雨宿りをするかの選択を迫られた。
「こんな時間に出歩くなんて珍しいな、一体どうした」
ティボルトの言葉にキュリオはチロリと目線を向けた。ティボルトは面白そうにキュリオを眺めている。
「世話になっている店の所用だ」
「人が好い」
ティボルトがクックッと笑った。キュリオはいくらかムッとして眉根を寄せた。
 「そういうお前はどうしたんだ」
「…ロミオのリューバの世話をしていた」
ロミオというのは彼の異母弟だ。先の争いの中で巻き込まれて消えていった少年。どこまでもお人好しな彼は少女を守り消えていった。
 ティボルトの白い指先がキュリオの頬に触れた。肌を濡らす雫は人肌に温んで境界線を曖昧にする。張り付いた衣服がまるで皮膚のように感じられる。ティボルトの顔が近づいたと思った刹那に唇が重なった。触れるだけで離れる唇は妙に紅かった。
「…ティボルト」
「こっちへ来いよ」
ティボルトはキュリオの腕を強引に引いて雨の中へ駆け出した。
 軒先から出た途端に冷たく重い雫が二人を打った。生乾きだった衣服はみるみる水を吸って暗色を帯び重くなっていく。下ろした前髪が視界をふさぐ。キュリオは空いた手で前髪をかき上げた。ティボルトのほうは身なりに頓着せず入り組んだ路地を進んでいく。
「どこに…」
「人のいないところさ。そこで抱いてやるよ」
途端に腕を振り解こうとするキュリオにティボルトは再度唇を重ねた。
「お前が濡れてあんなところにいるのが悪い」
ティボルトの手が扉を開き、その中へキュリオを突き飛ばした。振り向いたキュリオを突き飛ばして床の上へ押し倒す。ほこりっぽい床の上に二人の雫が飛んだ。濡れた手が床を掻いて跡を残す。
 ティボルトの指先が濡れたい服の上からキュリオに触れた。キュリオは抵抗をやめて四肢の力を抜いた。ティボルトの髪から雫が滴った。ぽとぽとと落ちるそれは涙のようにキュリオの頬を濡らす。
「素直なのも気持ち悪いな」
キュリオはティボルトと唇を重ねた。それにティボルトは満足げに笑った。指先が服の留め具を外していく。ティボルトの好きにさせながらキュリオの意識は窓の外へ飛んだ。
 激しく降った雨はなりをひそめて止みそうだ。灰色の闇は消えて夜闇が満ちてきた。重たい雨の日独特の重みも徐々に消えていく。雲の流れが速い。星星が覗いた。軒からぽたぽた雫が垂れる。雨漏りでもしているのか妙な具合でぴちゃんと雫の落ちる音が家の中に響いた。
「止んだ」
「なんだ?」
キュリオの言葉にティボルトが顔を上げた。キュリオの濡れた芥子色の瞳が夜空を見上げていた。潤んだようなそこに星星の光が映りこむ。
 ティボルトはすぐに目線をキュリオに戻す。
「まだ降ってるってことにしておけ」
ティボルトが噛み付くように口付けた。紅い唇が目を惹く。火照ったように紅いそれは瑞々しい。雨に打たれて冷えた指先はそれだけでキュリオの体を震わせた。ティボルトの指先が蠱惑的に蠢く。
 「悪いが止める気はないぜ」
「…構わない」
ティボルトが軽く口笛を吹いた。その口元が楽しげに笑った。
「珍しいな」
ティボルトはキュリオを好き放題に扱った。ティボルトの指のままに体を震わせながらキュリオは大きく息を吸った。重い空気が肺から押し出されて湿った空気が満ちてくる。
 「雨がやんだにおいだ」
キュリオの言葉にティボルトは声を立てて笑った。
「あぁ、そうだな」
ティボルトの指先が愛しそうにキュリオの頬を撫でた。キュリオは体から力を抜いて目蓋を閉じた。夜闇より濃い闇がキュリオの体を包む。ティボルトはキュリオの脚の間へ体をねじ込んだ。


《了》

消化不良…           10/21/2007UP

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