もう二度としたくない


   56:笑顔も隠れて

 夜も半ばになると虫がりりりと鳴いた。濡れ縁に腰を下ろして上機嫌で鼻歌を口ずさむのを弁慶はおっとりと眺めている。夜闇の色を吸って暗色に見える髪や瞳が煌めいた。深い海のようなターコイズの短髪。もう眠ろうとしていたのかいつもは上げている前髪が落ちている。そうしていると平素の前髪を上げた彼よりずっと若く見えた。夜空を見上げる潤んだような瞳は天河石。嵌めこまれたようなそれと稀有な色合いに魅入られる。
 少し目尻の垂れた目は人懐っこく笑い鋭く尖った切っ先をへらりとかわす。酒を飲みながら弁慶はじっくりと景時を堪能していた。弁慶は黒色の外套を脱いでいる。金茶色の髪が月明かりで艶を帯び、その白い肌は仄白いほどだ。唇や目元は酒でうっすら紅く艶めいている。
「へぇ、すごいねぇ」
「でしょう、たまにはいいと思って――」
そこで弁慶の言葉が途切れた。景時が目をやると困ったように九郎が立っていた。長い橙の髪を背中に流している。普段は頭の上で一つに結っているのだが今は下ろしている。
「一緒に飲まない?」
景時が杯を持ち上げて見せると九郎はチロリと弁慶の方を見た。
「僕は構いませんよ」
九郎はそれを聞いて腰を下ろした。
 「それじゃあ、九郎の分の杯を持ってきますから」
「俺が」
「景時の相手をお願いしますよ」
立ち上がろうとするのをさえぎって弁慶が席を立った。困る九郎をよそにほろ酔い加減の景時は調子よく杯を重ねている。ほんのり甘い香りが漂い、飲んでいる酒が上等なものなのだと知れる。
「飲む?」
景時が無造作に自分が使っていた杯を差し出した。胸を高鳴らせながら九郎は受け取ると杯を呷った。するりと胃の腑へ落ちるそれは喉越しもよくなかなかの一品だ。
 「弁慶ってすごいねぇ、オレもまだまだだなぁって思うよ」
「…まぁな」
九郎も弁慶には一目置いている部分がある。博識で、冷静沈着。助言は内容と機を心得ていて不快に思うことは驚くほどない。景時は屈託なく弁慶を誉めた。それにいちいち頷いていたが九郎の顔がどんどん渋くなっていく。景時に他意がないのは明らかだ。何より人を怒らせて面白がるのはむしろヒノエや弁慶の方で、景時は悪意とは程遠い位置にいる。
 景時の目がとろんとする。喉越しのいい酒はそれだけに量を飲めてしまい、曲者だ。気を抜けば酒に飲まれて痛い目を見る。景時は屈託なく笑いながら弁慶がいかに素晴らしいかを語った。熱のこもるその言葉に相槌を打ちながら九郎の心中は黒々としたもので塗りつぶされていった。
「すごいよねぇ、オレにはきっと、出来ないよ…それをなんでもないふうに」
「だけどあいつは時々強請るからな」
景時の顔がきょとんとする。しぱしぱと目を瞬いて九郎の顔を覗きこむ。
「で、でもさぁ弁慶ってすごいよ? この間だって」
「人には二面性があるといっていたのは弁慶本人だがな」
つんとそっぽを向く九郎に最大限譲歩した景時が小首を傾げた。九郎はそれを苦々しげに見た。景時の唇が弁慶はすごいと言葉を紡ぐのと同じ程度に九郎の心は混濁した。景時が弁慶を誉めるたびに口の中が苦くなっていく。ただの悋気だ。嫉妬だと判っている。判っているだけにその後始末には手を焼いた。
 「九郎、さっきからおかしいよ? 弁慶はいい人だし」
「判っているッ! お前に言われなくっても!」
ついに叫んだ九郎の言葉に景時がしゅんとした。思わずそれを後悔した九郎が唇に手をやる。それでも景時が言い募った。
「九郎おかしいよ…? ねぇどうかしたの」
九郎の堪忍袋の緒が限界を迎えた。こんなに胸を焦がすのも発言に一喜一憂するのも景時のためだというのに。あまりにも他人事な一言についに九郎が切れた。
「お前がそんなだから悪いんだ! だいたい弁慶だってそんなにいい奴ではないッ! そんなことも判らない――」
さらに言い募ろうとした刹那、ぱぁんと乾いた音が響いた。そして感じる頬の腫れ。景時の方を見れば潤んだ天河石の瞳が睨むように九郎を見ていた。その時になって初めて景時の平手を食らったのだと判った。拳でないのは最後に残った良心か。
 「景時?」
恐る恐る問うた九郎を景時はキツく睨んだ。景時の瞳が潤んだように煌めいた。酒でほのかに紅くなった目元は艶っぽい。魅了されるそれらは残らず九郎を睨んでいた。
「かげ、とき…――?」
「――ッ」
景時が顔を背ける。その瞳から涙が伝った。九郎はいたたまれなくなって席を立つ。長い髪が焔色にキラキラと輝く余韻を残した。
 駆けるように去っていく九郎の背中を見ながら陰に隠れていた弁慶が顔を出した。景時の言葉に他意はない。子供のような無邪気さで人を認められるのは景時の長所だ。九郎の悋気も納得がいく。九郎は傍目にも判るほど景時を想っている。その想い人が他人を誉めるのだ、面白いわけがない。景時を見れば涙を拭っている。二人ともに他意はないのだ。弁慶は空の杯をもてあそびながらため息を吐いた。


 ただ、衝撃だったのだ。いつも人懐っこく笑う景時の顔から笑みが消えた瞬間だった。笑顔を消すつもりなどなかった。ただ、嫉妬したのだ。景時の口から他の男の話題が出るのが耐えがたかったのだ。
「俺は…」
ため息と共に寝床の中でズルズルと崩れる。けれど悩んでいるのも性に合わない。九郎は息を吐くと掛け布を跳ね除けて夜着のまま景時の部屋へと向かった。
 「景時」
闇色の塊がビクッと震えて起き上がるのが月明かりで見えた。月明かりで仄白い濡れ縁へ人影が這い出してくる。前髪の下りたそれは景時だ。そうしていると思いのほか歳若に見える。
「九郎…?」
景時が座りなおした。月光が二人の肌を白く浮かび上がらせた。夜着の奥から覗く鎖骨。その間に嵌まっているのは宝玉。それらが月明かりで仄白く光を帯びた。
 「九郎、あのね」
景時が膝を進めた。割れた裾から覗く内股は白く艶かしい。
「打って、ごめん…やりすぎたかなぁって思って」
九郎の腕が伸びた。緊張した体を掻き抱く。景時は泡を食って九郎を見た。
「く、九郎?」
景時がフッと笑んだ。
「オレのこと嫌いになった?」
九郎がフルフルと首を振る。長い橙の髪がうねる。琥珀のような煌めきを持つ瞳が潤んで景時を見つめた。
 九郎の琥珀色の瞳が景時を見つめる。白い頬が腫れて少し痛々しい。景時の指先が頬に触れた。少し冷たい指先は人肌に温んでいく。
「腫れてる…ごめん、殴ったりして」
景時の目が潤んだように煌めいた。
「オレのこと、嫌いになった?」
「俺がお前を嫌うわけがないだろう」
九郎がふわんと唇を重ねた。熱く火照ったそれに景時が薄く笑んだ。景時が腫れた頬へ頬を寄せてくる。触れ合う冷たさが心地いい。
 景時の目が九郎を見た。慈悲深い目で九郎を見つめる。母親のように優しく。
「よかった」
景時の唇が九郎の腫れた頬に触れる。それだけで全てが満たされるような気さえした。九郎の唇が景時の唇と重なる。ふわんとしたそれ。景時は驚いたように目を見張った。
「嫌いじゃない」
二人のどちらからともなく笑いがこみ上げた。クックッと喉を震わせ笑う。二人がこうしている、それだけで全てが満たされるような気さえした。

悋気の夜は
笑顔さえ隠して


《了》

終わらなくて困った(待て待て待て)           10/27/2007UP

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