たしかなその、温かさ
55:その背に寄り掛かる
景時は濡れ縁に腰を下ろした。夜着に包まれた体はまだ火照っているようで眠りにつけそうになかった。このところ、九郎が手近にいる所為か頼朝から夜の呼び出しが増えた。頼朝は気まぐれに景時を呼び出してはその体を抱く。九郎が訪れている最中に呼び出されることも多い。後で行くと断ってしまえがいいのだがそのしっぺ返しは必ず寝床の中で行われた。
景時は月明かりに照らされた自身の胸を見た。仄白く光るようなそこについた紅い跡。それは頼朝との逢瀬が何を目的にしているか判る証だ。
「景時?」
景時が慌ててくつろげていた襟を直した。振り向けば九郎が不思議そうな顔をして小首を傾げていた。
普段は結っている長い髪を今は下ろしている。焔色の髪は月明かりを浴びて艶を放った。同じ橙の瞳は聡明に景時を見つめている。九郎は景時の沈黙に唇を尖らせて隣へ腰を下ろした。
「何かあったのか?」
九郎の瞳は真っ直ぐだ。それはきっと景時には一生手の届かないところにあるような、高貴な気高さ。罪を知らずただ一途に真っ直ぐな。九郎だって馬鹿ではない。頼朝との関係を見抜かれている可能性も計算のうちだ。それでも景時からはけして言わない。言えるはずもなかった。九郎にとって頼朝は特別な存在だ。景時にとっては仕える主ですらある。
「何も、ないよ? なんで?」
景時はへらりと笑った。もう少ししっかりしてくださいと妹に諫められた笑顔で笑う。この笑顔に人々が安堵することを景時は知っている。九郎が何か言いたげに唇を歪めた。快活で明るいこの青年は腹芸が得手ではない。それはいっそ愚かさすら感じさせるほどの真っ直ぐさ。
「なら、いいんだが」
「お茶でも淹れようか? 九郎はどうしたの、こんな時間に」
「眠れなくなっただけだ…それに」
景時が目を瞬いた。九郎はフイと顔を背ける。
「お前が心配なだけだ」
刹那、景時が泣きたいような顔をした。景時は体を投げ出すように九郎に抱きついた。
「大丈夫だよー、ありがとう」
その瞳が濡れているわけを九郎はついに聞き出せなかった。
行儀悪く濡れ縁に寝そべって思惑にふける九郎の上に影が差した。
「何か、悩んでいるみたいですね」
黒色の布を頭からかぶっているのは弁慶だ。金茶の髪を隠すように布をかぶっている。茶褐色の瞳が九郎を映し出す。九郎は体を起こすと弁慶に座れと手振りで伝えた。言い出そうか迷っている素振りの九郎をせかしたりせずに弁慶は待った。ついには覚悟を決めたのか九郎が口を開いた。
「…景時、が」
「景時がどうかしましたか? あぁもしかしてもういらなくなったんですか、だったら僕が貰いますけど」
「そんなわけあるかッ!」
弁慶が顔を背けて吹き出した。揶揄されたのだと気付いた九郎は頬を染める。髪や瞳の橙色に負けないくらい頬が紅い。弁慶は笑い涙を拭いながら九郎の唇をつんとつついた。
「ほら、答えは出ているでしょう。あなたはそれを伝えればいいだけ」
「…迷惑に、なるんじゃないか」
「向こうもきっとそう思ってますよ」
ためらうような様子を見せる九郎に弁慶は微笑んだ。それでも九郎は泣き出しそうに顔を歪めた。風が頬をなぶり髪を浮かばせる。橙の髪が日に透けて輝いた。
「俺は、あいつの負担になりたくない」
九郎の血を吐くような独白。その眦から涙が零れた。
「あいつが、大切なんだ。あいつを困らせたりしたくない…」
その頬をぱちんとはさむように弁慶が打った。
「馬鹿じゃないですか、あなたは」
きょとんとする九郎に弁慶は優しげに笑んだ。
「景時が何故あなたを気にかけると思ってるんですか。答えはもう、出てますよ。後はあなた方二人の問題です」
「…判った」
九郎の瞳が潤んだように煌めいた。
夜闇が満ちた段になって九郎は景時の部屋へ向かった。わざと事前に連絡しなかった。避けられるとは思わなかったが行き当たりばったりの方がいいような気がしていた。今日も景時が夜着に身を包んで濡れ縁に腰を下ろしていた。深い海面の色をした髪。天河石のような煌めきを放つ瞳は彼が存外利発なことを示している。軍奉行を務める性質だ、馬鹿なわけはないのだがその聡明さには時として舌を巻く。
気配に気付いたのか景時が九郎の方を向いた。その瞳に一瞬走る陰りを九郎は言及しなかった。下ろした髪をなびかせて九郎は景時の隣に腰を下ろした。黙ったままの九郎を景時がおずおずと窺う。少し垂れた目が愛らしい。
「俺は待つからな」
「へ?」
景時が目を瞬かせる。九郎は真っ直ぐ前を見たまま言葉を紡いだ。
「お前が話してくれるまで、待つ。ずっとずっと、待つから」
景時の目がみるみる見開かれていく。景時の唇がわなわなと震えた。肌は色をなくして蒼白なほどだ。髪の色が妙に映えた。
景時が膝をついて移動した。振り向こうとした九郎の背中にとんと温もりが触れる。背中合わせの状態で九郎は振り向くのをやめた。床についた手が震えていた。その指先が何かを堪えるように爪を立てる。関節が白くなるほどのそれに九郎は目を眇めた。
「ありがとう…ごめん、ね」
ぎちぎちと床に立てられた爪が白くなっていく。その手を包むように九郎は手を置いた。触れ合う背中がわずかに揺れていた。
景時はそろえた膝を抱えるようにして顔を伏せた。通った鼻梁を涙が伝い落ちていく。震える手を包むように置かれた手の平か温かく。一瞬、見開いた瞳が九郎の手を見た。涙に濡れた視界でその手は白く。
「お前が、好きだ」
景時の背が震えた。涙は後から後から溢れて止まらない。何故こんなに哀しいのか辛いのか苦しいのか。膝を抱えるように丸くなって景時は耐えた。胸が圧されているようだった。呼吸すらままならない。溢れる涙を止めることを景時は諦めた。九郎の背中に体重を預けると不意に気が楽になった。涙に濡れた頬を夜の空気がさらりと撫でた。景時の手を包む九郎の手は温かだった。九郎の背中は思ったより広く確かだった。確かな温もりがそこにあった。
景時の涙に濡れた瞳が空を仰ぎ見た。煌めく星星を読むことを生業としていた時期もあったことを思い出す。
「いつか、話すよ…うん、きっと…いつか」
震える声にそれでも九郎が頷いたのが感じ取れた。
二人は目蓋を閉じて夜の空気に身を任せた。凛と冷えた空気が涙に濡れた頬を冷やし、火照った体を際立たせた。触れ合うそこから融けていきそうな、感覚。
これがきっと、幸せ
《了》