あなたのためなら安いもの
51:宵越しの金は持たない
気が向くならと連れ出された先は繁華街だった。露店が軒を連ねて威勢のいい呼び声が辺りを震わせた。夜闇の満ちた辺りは怨霊の出やすくなる反面、昼間は見えない顔を見せていた。少々いかがわしい商売やそれに従事する者。彼らは日々の隙間を縫って威勢良く生きていた。夜空の星が霞むほどに華やかな焔色がちろちろ燃えた。
「わぁ〜」
おおよそ彼の実年齢のそぐわないそれに弁慶は笑った。
昼間くつろぐ格好のまま辺りの露店を見回す彼の顔が華やいだ。物珍しいものなどないだろうに平素とはまったく違う顔を見せていた。ターコイズの短髪は深い海面のような色。人懐っこく笑う瞳は天河石の煌めき。物売りに捕まってはいちいち足を止めるのを引っ張った。耳につけられた銀筒が月明かりを反射して光を帯びた。
「本当に楽しそうですね」
しつこい物売りを振り切ったところで弁慶が景時を振り向いた。景時はにっこりと笑った。
「楽しいよ、ありがとう」
弁慶はフッと笑う。闇に解けそうな黒布を頭からかぶっている所為かちらちら覗く髪が金茶に光る。茶褐色の瞳が潤んだように煌めいて笑んだ。白い指先が景時の顎に当てられる。景時は不思議そうにそれを見るだけだ。弁慶の指先が景時の頬を滑り唇に触れる。
「そんなあなたが見れて嬉しいです」
そのまま近づいた弁慶の体が止まった。唇が触れ合う寸前で止まったそれに景時が目を瞬かせる。弁慶は意味深長に目線を後ろへ泳がせた。
「こんなところで何してんだよ」
響いた声に景時の方が驚いた。後ろから弁慶の肩を掴んでいるのはヒノエだ。その指先が黒布の上から食い込んでいる。弁慶はため息をつくと景時の頬から指先を離した。燃えるような紅い髪と額の紅玉。まだ幼さの垣間見える仕草や顔立ち。若さゆえの勢いはそれが魅力でもある。臆することをしないヒノエの登場に景時は首を傾げた。ヒノエの目に留まることをした覚えがない。ただ一人の少女の下に集まった以上の親密さは求めた覚えもなければ求められた覚えもなかった。
「ヒノエくん?」
「あんたものこのこついてくるなよ」
切り込むように言われて景時がたじろいだ。柘榴石のような瞳は怒りに燃えていた。
「ほらほら、景時が困っていますよ」
助け舟のようなタイミングのそれにヒノエは一瞬、景時を睨むように見たがすぐに自信ありげに笑った。肩の辺りまで伸びた髪を払って言い切った。
「まぁ来ちまったもんは仕方ないね。景時、何でもおごってやるぜ」
「へ?」
景時がぽかんとする。叱責されると思って身構えただけに肩透かしのようなそれに素直に驚いた。景時とヒノエの間で弁慶がちっと舌打ちした。けれどそれに気付いたのはヒノエだけであった上に、ヒノエはそれを笑い飛ばした。
「僕だって同じ気持ちですよ、景時、遠慮なくどうぞ」
景時が困ったように二人の顔を見た。ヒノエが弁慶に噛み付いた。
「譲れよ!」
「なんでですか」
弁慶はつんとそっぽを向いて取り合わない。ヒノエが悔しげに歯噛みするのを景時は困ったように見るだけだ。弁慶が罪のない笑顔を向ける。
「景時が気にする事はないんですよ」
「うーん、でも…」
「そうそう、何でも好きなものおごってやるよ。今更遠慮はなしだぜ」
二人の瞳が景時の言葉を待って煌めいている。景時が困り果てると物売りが近づいてきた。
物売りの巧みな話に乗せられて景時が品物を見る。その横から弁慶とヒノエが顔を覗かせた。甘い香りがふわんと漂う。
「欲しいのか」
「え、えぇ、うーん…」
ヒノエの大きな目がキョロッと景時を見た。景時が照れたように頬を掻いた。ヒノエの肌は日に焼けて健康的だ。月明かりと焔の明かりに照らされて艶かしく艶を帯びている。対照的に弁慶は肌がそれ自体が輝いているかのように白い。黒い布を頭からかぶっている所為かその白さが際立った。珍しくて綺麗だと思う金茶色の髪を弁慶は黒布で隠している。茶褐色の瞳が穏やかさの中にも凛としたものを持っている。
「いくらだ」
横柄なヒノエの言葉にも物売りは嫌な顔一つせず値段を言った。ヒノエが有り余るほどの代金を支払うと物売りは満足げに品物を景時の腕にたくさん乗せた。
「えッえッえー?」
あっけにとられている景時をよそにヒノエが用は済んだとばかりに物売りを追い払う。
「ヒノエくん、悪いよ、こんなに」
「俺の愛だと思って受け取ってよ」
その言葉に景時の顔がみるみる紅くなった。耳や首筋まで真っ赤になる様子に弁慶とヒノエが同時に吹き出した。
「笑わないでよー!」
景時は拗ねたように唇を尖らせると品物の一つを手に取った。甘い香りの漂うそれは菓子だ。一種の芸術だと思いながら景時はそれを口に放り込んだ。口の中がほんわり甘くなる。
「うまいか?」
「ウン、美味しいよ」
景時の指先が菓子を一つつまんだ。
「ヒノエくんもどう?」
ヒノエの瞳がキランと煌めいた。そのまま景時の指先ごとぱくんと口に含む。
「ふぇッ?」
熱く濡れた舌先が菓子を奪っていった後もしつこく指先を舐めてくる。色めいたその仕草に景時は真っ赤になって指を取り戻そうと必死だ。弁慶がいち早く気付いてヒノエをべりッと引き剥がす。ヒノエは残念そうに唇を歪めたがすぐに性質のよくない笑みを浮かべた。
「甘くてうまいな」
「ヒノエくん!」
「事実だぜ」
ヒノエのほうは悪びれることもなく平然としている。弁慶の指先が菓子を一つつまんで景時の唇へ押し付けた。反射的に開いたそこへ菓子をねじ込み、景時が舌を出した刹那を狙って弁慶は唇を寄せた。ヒノエがあっけに取られ景時にいたっては身動き一つ取れない。それをいいことに弁慶は景時の唇を心ゆくまで味わった。ねじ込んだ菓子は疾うに融けて二人の舌先へ滲んだ。我に返ったヒノエが弁慶を引き剥がそうと必死だ。
弁慶が離れると二人の紅い舌先を銀糸がつないだ。
「なにやってんだよ!」
「これくらいで怒っているなんて…修行が足りませんね」
やれやれと言いたげに肩をすくめるようにヒノエの苛立ちが募る。幾つになってもこの男には敵わないような気さえする。
「おまえもぼさっとしてる、な…」
景時に目を向けたヒノエがギクリと体を止めた。それを見た弁慶も目線を向けて、驚いたように目を見開く。
「え、あ…」
景時の瞳が濡れて一筋の涙が滑り落ちた。
「ご、ごめん、オレどうしたんだろ…」
ごしごしと目元をこする手元がおぼつかない。ヒノエの手がすばやく伸びて景時の手を払い落として下顎を固定する。景時がそうと気づく前に唇が重なっていた。
「お前が泣くと辛い…だから泣くなよ」
「景時、大丈夫ですか」
濡れた頬を弁慶の白い手が撫でた。反対の目元をヒノエの指先が拭った。二人の心配そうな視線に景時はへらっと笑った。
「ありがとう、ごめん、大丈夫だから」
ヒノエと弁慶は同時に黙った。二人の心中がざわついた。困ったように笑う顔は普段より儚げで手を離したらその場から崩れて消えていってしまいそうなほど脆く見えた。
「なら、いいけどさ」
ヒノエの譲歩した言葉に景時の方が目を瞬いた。弁慶は穏やかに微笑して景時の頬を拭った。
「あなたがそれでいいなら」
景時が体を屈める。二人の身長は悔しいことに景時に追いつけていないのだから仕方がないといってしまえばそれまでだが。
景時の唇がヒノエと弁慶の頬に触れた。ふわんと触れるだけのそれに確かな熱を感じて二人は景時を見た。顔を真っ赤にした景時が踵を返す。二人はこっそり笑い合うと景時の背中に飛びついた。
「えッな、なに?!」
「一人で行くなよ!」
「僕らも連れて行ってくださいね」
驚いて泡を食う景時が何故だかひどく愛しくて二人は瞬時に一時休戦を結んだ。ヒノエの指先が景時の脇腹をなぞる。弁慶の指先は涙を拭った頬に添えられる。弁慶はそっと唇を重ねた。
「あッ」
ヒノエの怒る声など知らぬげに弁慶は景時に微笑んだ。
「あなた一人じゃないんですから」
景時が困ったような嬉しいような顔をした。
「ありがとう」
「ほらほら、夜は長いぜ、次はどうするんだよ」
「あなたのためと思って準備しましたから懐はあたたかいですよ」
二人が景時の体に触れる。景時が一瞬体を強張らせたのを二人は気づかない振りをした。
《了》