ただのそのまま口の端に乗せる
50:浮かぶままに
目の前の食事が見えづらくなって初めて顔を上げた。窓の外は闇がたゆたう夜になっていた。隠れ住むだけあって明かりのついている人家もまばらだ。表通りから外れたこの位置にある家に隠れ住むようになってかなり経つ。ここに住むことを知る人間も限られている所為か人の訪れも少ない。
窓に歩み寄るとまばらに点く明かりが間延びした点滅となってちかちかとした。入り組んだ階段や路地が闇を生み出し時折思い出したように明かりが点く。動く明かりは家路を急ぐ人々で残像を目蓋に灼きつける。窓を閉めると明かりを点ける。焔色に揺らめく明かりが温かな色を見せた。一人分の質素な料理の並ぶ食卓にため息が出る。席に着こうとしたときに扉がノックされた。
扉を開けるとティボルトが立っていた。その意外さにキュリオは目を瞬いて固まった。ティボルトが怒ったように肩をすくめた。黒色のマントが明かりの届かない箇所から闇に融け出すような錯覚を覚える。
「なんで…?」
「後ろが甘いぜ」
ティボルトは当然のようにキュリオの部屋へ足を踏み入れた。キュリオは慌てたようにそれを追う。
ティボルトの黒髪が橙の艶を帯びる。蒼色の瞳が射抜くようにキュリオを見た。芥子色の瞳が応えるように煌めいた。
「あの長髪はいないんだな」
勘繰るような言葉にキュリオはムッとして答えなかった。ティボルトは答えを待たずにベッドへ腰を下ろす。キュリオは黙って食事を片付けた。ティボルトの急な訪れがただでさえなかった食欲を殺いだ。
ベッドへ腰を落ちつけながらティボルトはどこか居心地悪そうに身じろいでいる。食器を洗いながらキュリオはティボルトの様子を気配だけで窺った。もとより友好的ではない関係だ。突然の訪れも何か意味があるのかと勘繰る。ティボルトはキュリオたちとは別の思惑で動く人物だ。それがこんな時間に何の用だと怪訝に思うのもやむを得ないだろう。
「あの長髪が来る予定はあるのか」
「お前に関係あるのか」
「あるさ」
意味ありげに笑ったティボルトの唇が熟れたように紅い。皮膚一枚の裏に蠢く流動的な熱を垣間見たような気がした。
キュリオは皿を片付け終えると布巾で手を拭いてティボルトの前へ立った。
「何の用だ」
もとより腹芸は得手ではない。直接的なそれにティボルトが笑った。
「用事が必要か? …お前に会いたかった」
キュリオが目を瞬いて驚く隙にティボルトは唇を重ねた。
薄い皮膚の裏で熱が流動的に蠢く。たぎる熱を感じながらキュリオの腕を掴む指先は驚くほど冷たかった。紅い舌先が篝火のようにちろちろと燃える。キュリオの唇を揶揄うようになぞって離れたそれにキュリオは詰めていた息を再開した。喉が急激な変化に軋む。同時にティボルトは体を反転させるとキュリオの足を払った。ベッドに倒れこむキュリオの上にティボルトは圧し掛かる。
「どけッ!」
両腕を拘束すると噛み付くようなキスをした。歯がぶつかりあい痛みに目が濡れる。
「嫌なら振りほどけ。俺から離してやる気は、ない」
キュリオは自身より華奢な体を振りほどけなかった。マントから伸びる腕は白くその皮膚は発光しているかのように仄白い。蒼色の瞳は瑠璃の輝きを帯びてキュリオを魅了した。
ティボルトが目を眇め口元を歪めて笑った。
「つくづく甘い奴だな、お前は」
「…どけ」
「嫌だといっただろう」
それでもティボルトは拘束していたキュリオの手を離した。キュリオの手が伸びてティボルトの頬や目蓋に触れる。その指先が頬から喉へ滑り落ち、ティボルトの喉仏に触れた。突き出たそれはそこだけ妙に鋭利な気がした。
キュリオの芥子色の瞳が潤む。ティボルトの指先は頬を撫でて潤んだ目元へ伸ばされる。
「殴る前から泣くな」
「殴る気だったのか」
「拒まれたら殴る気だった」
正直なそれにキュリオはクックッと笑った。ティボルトは指先からその震えを感じ取る。キュリオの喉に指先を這わせる。緩められていた襟をさらにはだける。あらわになる皮膚にティボルトは指先を這わせた。
キュリオが認識する間もなくティボルトは唇を重ねた。キュリオは黙ってそれを享受する。緩く開いた唇の隙間からティボルトは舌を潜り込ませた。
「優しいな」
「お前に会いたかったからな」
嘯くキュリオの言葉にティボルトは酷薄な笑みを浮かべた。
「だからお前を抱くぜ」
キュリオは痛むような目をしてティボルトを見た。ティボルトの指先が震える。キュリオの指先がティボルトの頬に添えられた。
「お前は俺を名前で呼ばないな」
「お前だってそうだろう…お前、名前は」
ティボルトの問いに答えずキュリオは指先をひらめかせた。紅い唇をなぞる。
「…ティボルト」
ドクンと心臓が脈打ったような気がした。
ティボルトの動揺は現れない。当然のようにそれを受け流す。ティボルトは問いを繰り返した。無垢な子供のように。
「お前の名前はなんだ」
「…キュリオ」
ティボルトの顔が楽しげに微笑んだ。紅い唇が弓なりに反る。それがただただ甘く言葉を紡ぐ。その白い頬に紅い色がさしていることにはキュリオは気付かなかった。紅い唇が動く。
「キュリオ」
「結構、いい声をしているな」
ティボルトはそれをはねつけて笑んだ。
「お前にもっと俺の名前を叫ばせてやるぜ」
ティボルトの指先が襟を緩め一気に腹部まで露出させた。滑り込む指先の冷たさに体を震わせる。キュリオの腕がティボルトの首に絡んだ。
《了》