あなたがいない、それだけで


   47:世界の空洞

 静かな音をさせて杯へ酒が注がれる。高級らしいそれはほのかに甘い香りがして喉越しもいい。九郎は注がれた杯を呷った。透明な酒が胃の腑へ落ちていくのが判る。それだけが熱を持ったようにじんわりと染みていく。九郎が酒瓶を傾けるとすかさず景時は受けた。
「ありがとう」
酒の酔いもまわって焔色に照らされた景時の顔がほんのり紅い。唇が熱を持ったように紅く目を惹いた。透明な酒が唇を濡らす。九郎はそれを誤魔化そうとむやみに酒を呷った。
「ペース速いね、九郎。大丈夫?」
「…馬鹿にするな、これくらい大丈夫だ」
ズイと景時の目の前に杯をかざすと困ったように笑って景時は酒を注いだ。
 夜が満ちて部屋の隙間から闇が忍び込んでくる。明かりに照らされた部分はなんてことはないのだが部屋の四隅に満ちるそれは不意に口を開けて目の前へ迫る。夜の鳥がほぅほぅと鳴いた。二人で酒を酌み交わす空気が心地好い。濡れ縁に二人して腰を下ろして涼んでいる。景時はほろ酔い気分で夜空を見上げている。
 深い海面の色をした髪と天河石の煌めきを放つ瞳。夜闇を吸って暗色に見えるそれらとは対照的に皮膚は発光したように仄白い。景時は上着の裾を上手くさばいて座っている。あらわになった腹部は引き締まっていて見苦しくない。くぼんだへそや覗く腰骨の先端が妙に艶やかだった。鎖骨のくぼみにはまった宝玉はきらりとターコイズに輝いた。
「ヘェ、二人きりで何してんのさ」
九郎が口を開いた瞬間に響いた軽妙な声に二人が同時に目を向けた。
 艶やかな蘇芳色の髪。瞳は柘榴石の煌めきで若輩にして一軍を率いる聡明さが窺えた。額には小さな紅玉が嵌まっている。
「ヒノエくん」
景時はへらっと笑って杯を掲げて見せた。
「九郎がいい酒が手に入ったからって持ってきてくれたんだよ」
「ふーん」
ヒノエの片眉が意味ありげに跳ね上がる。九郎は苦々しげにそれを見つめていた。景時だけが酔っ払った心地好さのまま杯を重ねている。
 景時が酒を呷ったのを見てからヒノエは唐突に唇を奪った。九郎が杯を落としそうになるのを横目にヒノエがさらに深く口付ける。濡れた音がし始める段になってヒノエはようやく景時を解放した。
「ホントだ。いい酒だね」
ヒノエの紅い舌先がからかうように景時の唇をなぞって離れた。
「ヒノエくん?」
とろんとした景時の眼差しにヒノエが笑んだ。
「邪魔がいなけりゃね、いいんだけど」
「どっちが邪魔だッ!」
ヒノエの言葉に九郎が噛み付いた。杯を割りそうな勢いで叩きつけると九郎の目がヒノエを射抜いた。
 「ふ、二人ともどうしたの? みんなで飲めばいいじゃない」
「へーぇ」
景時の言葉にヒノエが裏返ったような声を上げた。九郎がギリギリと歯噛みする音が聞こえてきそうだ。ヒノエはもう一度景時に口付けると体を起こした。
「なんだかあっちが限界っぽいから今日は退散するよ、じゃあな」
余裕の笑みを見せて立ち去る背中を景時は呆然と見送った。小首を傾げながら九郎の方を向いた。九郎がギッと景時を睨みつける。
「ヒノエくんもいたっていいよね?」
刹那、九郎の腕がしなって景時の頬に平手を炸裂させた。成人男子の一撃は強く、景時の体が傾いだ。ワンワンと響く痛みと衝撃に景時は目が醒めたように目をぱちくりさせた。
 「九郎?」
「お前なんか知るかッ!」
髪を逆立てるように激怒する九郎が立ち去るのを景時は呆然と見送った。倒れた酒瓶から零れた酒がフワリと香った。


 「なにやってんですか」
食事も終えて後は眠るだけという刻限に濡れ縁の上で膝を抱えて丸まった九郎に弁慶がため息を吐いた。九郎の体が解けるように形を崩していく。濡れ縁に行儀悪く寝そべる横に弁慶は腰を下ろした。
「聞いてますよ。平手を見舞ったんだそうですね」
「…だってアイツが、ヒノエも一緒がいいなんていうからだッ! 人の気も知らないで…」
長い橙の髪が流水のように滑った。同じ色をした瞳が後悔と嫉妬と罪悪感に濡れている。
 「だから殴ったんですか」
「……後悔している」
「馬鹿じゃないですかアンタは」
弁慶の毒舌に九郎はぐうの音も出ない。弁慶がやれやれと立ち上がる。そのまま遠ざかる足音を聞きながら九郎は濡れ縁に指を這わせた。

だってあんな顔をして言われたら
けれど君がいないだけでこんなにも

体にぽっかりとあいた空洞

深いため息が漏れる。考えは堂々巡りだ。解決策など浮かぼうはずもない。殴ってしまったのは事実なのだから謝りに行けばいい、そこを糸口にして仲直りしてしまえばいいと判っている。それでもヒノエの口付けを黙って受けていたことやその時の表情などが怒りを沸き立たせた。あんな、カオをして――
 「ちょ、ちょっと待ってよ!」
響いた声に九郎が跳ね起きた。目の前には弁慶が何食わぬ顔で立っている。問題はその連れだ。ターコイズの短髪、天河石のように煌めく瞳。困ったような顔が輪をかけて困っている。鎖骨のくぼみに煌めく宝玉。仲間内でも長身の部類に入る背丈。腹部を無造作に晒しながら覗く腰骨が色香をかもし出している。
「景時ィッ」
「うわ、うわうわ」
裏返るような九郎の叫び声に景時が回れ右をしようとする。それを弁慶がガッシリと引きとめた。翻る上着の裾をがっしと掴んで話さない。
 弁慶は罪のない顔でにっこり笑うと景時を九郎の方へ突き飛ばした。
「仲直りしてくださいね、うざったいですから」
磨きのかかった毒舌が面倒事を増やすなと言っている。夜の虫がりぃんりぃんと鳴いた。突き飛ばされた景時は慌てて九郎の上から起き上がろうとする。九郎はその体にしがみついてはなれない。
「ねぇ九郎、離してよ、ねぇ」
泡を食ったように離れようとするのを逃がすまいとしがみつく。見上げれば昨夜ひっぱたいた頬は手当てされていた。少し腫れているのが夜闇の中でも見て取れた。
 「九郎、ごめん、だから許して…ねぇ、離して…!」
「少し黙れ」
鋭く言われて景時がうぅと唸りながら口を閉じた。
「意味も判ってないくせに謝るな。…昨日は、悪かった」
ぼそぼそと謝る九郎の声に景時が目を瞬かせた。景時の顔がふぅっと緩んだ。
「九郎」
ぴくんと震える体。前髪をかき上げて現れた額に景時が口付けた。途端に見上げてくる九郎の顔が紅く染まる。唇がパクパク動いて喉が何か言いたげに震えた。
 景時がにっと笑った。歯をむき出して笑うさまは悪戯っ子のようだ。
「ごめんね、好きだよ」
九郎の顔が笑んだ。

確かに
あぁ確かに満たされた

「あぁ、俺もお前が好きだ」
「オレもだよ」
重なった唇がゆっくりと融けあった。九郎の指先が景時の腰紐に伸びた。


《了》

馬鹿ばっか…!(お前もだ)            10/14/2007UP

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