オチないあなたをオトすため
ちょっとした小細工を
41:ウイスキーに目薬
夜闇は不意打ちで視界を染める。橙の焔色になれた目には墨より黒く見える。橙の残像を残して明かりは消えたり不意についたりする。運河は墨を流したように闇に染まり、冷たい石畳は硬質な足音を響かせた。石造りの家々からもれる明かりは数えるほどしかなくそれ故に鮮烈だ。橙が紅い残像となって目蓋に灼きつく。目を閉じてもそれらは不規則な残像となってちかちかと星星のように瞬いた。
目的の建物の死角に入ると小細工を施す。しぱしぱと目を瞬き小瓶をぐいっと呷った。同時に持ってきた水を口に含んでうがいをして吐き出す。入れ物を入り口のそばへ置くととぱたぱたと体を叩いて確かめる。ハァッと息を吐いて臭気を確かめる。それから一呼吸置いて扉をノックした。返答がなくフランシスコは扉を無遠慮に開けた。
開かれた窓の脇でカーテンがはたはたと空気を孕んではためいている。小奇麗に片付けられた部屋。テーブルの上には読み止しの小冊子が置いてある。手元の明かりで十分用は足せた。ふぅッとそれを吹き消すと途端に闇が流れ込んでくる。それをテーブルに置くとベッドに歩み寄った。ベッドの上に起き上がる人影が見える。
「キュリオ」
「…フランシスコ?」
開かれた窓から差し込む月光がまだ寝ぼけ眼のキュリオを照らし出した。フランシスコがベッドに飛び乗ると軋んだ音がした。キュリオが手元を探って明かりをつけようとする。それをフランシスコの白い手が押しとどめた。月光を浴びてフランシスコの白い肌が発光したように仄白く輝いていた。
「ねぇしてもいいでしょう」
耳朶に甘く囁くとキュリオは驚いたようにフランシスコを突き飛ばした。上手くバランスを取ってフランシスコはベッドの上に踏みとどまった。
「キュリオ」
「嫌だ」
にべもない一言にフランシスコは頬を膨らませて抗議した。
「どうしてですか、ねぇ、キュリオ?」
フランシスコはキュリオの上に圧し掛かった。もうすでに就寝していたのが裏目に出てキュリオはフランシスコの近づく顔を押し退けるのが精一杯だった。掛け布がキュリオの体をフランシスコの代わりに押さえ込んでいる。胴回りが押さえられて自由に動くのは両腕だけだ。体格で言うならキュリオの方がフランシスコより勝っているが状況的には上から圧し掛かっているフランシスコの方が優位に立っている。
就寝のために緩められた襟にフランシスコの指先が這う。留め具をギリギリまで外すと一気に開いた。キュリオの日に焼けた肌があらわになる。健康的なそれはフランシスコのそれと違って月明かりを浴びても光を帯びるどころかくすんでさえ見えた。
「する気はないッさっさと帰れッ」
刹那、フランシスコが目を瞬いた。蘇芳色の眦から雫が盛り上がったかと思うとぷっつりと切れて頬を伝った。白く輝く頬を雫が滑り落ちる。驚いたキュリオは言葉もない。
雫は次々と溢れてフランシスコの頬を濡らした。月光を反射してそれは星のように瞬いた。
「だめなんですか?」
小首を傾げるようにキュリオの方を窺う様子は小動物が体を震わせて見つめてくる様にも似ていた。キュリオが言葉に詰まるとさらに顔を近づけてくる。潤んだ蘇芳色の瞳。月明かりに照らされて紅玉のように煌めいた。キュリオは言葉に詰まって視線を彷徨わせた。
「…泣くのはズルいだろう…」
困りきった顔で唇を真一文字に結ぶ。それでもフランシスコは体を震わせてキュリオを一心に見つめてくる。
「キュリオ、ねぇ、キュリオ」
その白い頬に赤味が差している。林檎のように熟れた紅さを持つ頬は熱を帯びている。触れる指先から融けだしてしまいそうだった。皮膚一枚の境界線。危ういような脆いようなそれは裏腹に強靭で確かだ。フランシスコの指先が喉を伝い、開いた襟から胸へとおりていく。
鳩尾をフランシスコの指先が圧迫する。喘ぐように仰け反った喉に空いた手が這う。熱を帯びた指先が尖った喉仏を撫でた。すぐにフランシスコの顔が近づいて唇が重なった。触れる唇は濡れていて皮膚に馴染んだ。
「お願いですから、抱かせて?」
潤んだように濡れた蘇芳色の目がキュリオを見上げた。キュリオは苦々しげな顔をしたあとおずおずと口を開いた。色づいた唇が開く。
「…判った」
途端にフランシスコの顔が華やいだ。嬉しそうなそれは花が綻ぶかのようだ。
「ホントですか?」
嬉しそうに目を眇めるフランシスコの様子にキュリオは頬を染めた。紅く色づいた頬が月明かりで見える。唇まで血が上って紅い。
「一度だけだ、一度!」
「はーい、判りました」
フランシスコが嬉しげに頬を摺り寄せる。猫のように喉を鳴らす様子にキュリオは息をついた。フランシスコの長いクリーム色の髪は薄い蒼色を帯びて艶を放っている。蘇芳色の瞳は血色に煌めいて魅了する。キュリオの芥子色の目が闇を吸って濃灰色へと自在に色を変える。鳶色の髪は闇を帯びて黒色にすら見える。フランシスコの白い指がその髪を梳いた。
フランシスコは唇を重ねた。キュリオは抵抗もしない。フランシスコの好きにさせている。火照って熱を帯びた頬へキュリオは手を這わせた。考え込むようなそれを振り払ってフランシスコはキスをした。噎せるような吐息にキュリオは喘いだ。
「いいか、一度だ!」
「判ってますよ」
キュリオの服を脱がせながらフランシスコは自身も裸身になった。仄白い皮膚が暗闇に浮かび上がる。キュリオはフランシスコの指先がベルトに伸びて下肢をまとう衣服に伸びるのを黙認した。
キュリオは眉を寄せて囁いた。
「お前、酒臭くないか」
「気のせいですよ」
脱ぎ捨てられた衣服の隙間からウイスキーの瓶と目薬の小瓶が煌めいていた。その煌めきを瞳に宿しながらキュリオは見ない振りをした。
《了》