哀しい哀しいそれは
38:明日の準備
楽しかった。日々が終わることなど予想もせずにただ楽しかっただけだった。それでも終わりは唐突にやってきた。振り上げた剣と肉を裂く手応え。噴き上がる深紅に目を奪われた。生温いそれらは妙にべたついて頬や手の平を汚した。おののく暇などなくただ無我夢中で逃げた。斃れていく人々。そこに例外はなく自身の親すらも。何も出来なかった。泣き叫ぶ声とリューバの羽ばたく音。強く引かれた腕は引き千切られそうに痛んだ。皆が混乱していた。自分も戦うと泣いた。己が力など微々たる物だと判っていた。それでも言わずにはいられなかった。それをはねつけ逃がしたのは親の機転か。伸ばされた手は何物も掴めず。
――ただ、無力
ぱちッと目蓋が開いた。潤んだ視界に意識がぼんやりとする。呆然と辺りを見回す。混乱も怒号もそこにはなくただ夜の静けさが満ちていた。指先が頬を掻く。
「…寝ていたのか」
備え付けの明かりを点すと橙の明かりがちろちろ燃えた。触れた頬が濡れていることに気付いてキュリオは乱暴にそれを拭った。それでも潤んだ視界に気付いて目をこすると立ち上がった。炊事場を片付け散らかった細々したものを片付ける。ついでに翌日の朝食の仕込みも終える。貴重品をまとめて枕元のサイドボードの下へ隠すように置いた。それから一番手近な窓を開け放っておく。カーテンがはたはたと風をはらんではためく。
コツコツと響いたノック。玄関の方へ顔を向けるとフランシスコが顔を出したところだった。長いクリーム色の髪がさらりとなびく。夜闇を帯びてか淡い蒼色の髪に見える。淡い蒼と橙が交じり合って複雑な色合いを成す。蘇芳色の瞳がキュリオの様子を見た。
「なんだか眠れなくなって来ちゃったんですけど」
片付いた部屋と開け放された窓。枕元の短刀にフランシスコが壊れそうな顔で笑った。
「これがあなたの傷痕なんですね」
明日の準備をしておく
すぐにでも跳ね起きて飛び出せるように
必要なものは手近において
窓を開けて脱出口を作っておいて
襲われても逃げ出せるように
フランシスコの指先がキュリオの包帯に伸びる。
託されかくまっている少女をかばってついた傷。意外に深かったそれは痕が残るだろう、目蓋は開かなくなるだろうと医者に言われた。包帯に覆われた今は痛々しく白いそれが目に付く。
「まだ、痛みますか」
「…もう、平気だ」
フランシスコの唇が頬骨の辺りに触れた。紅い舌がぺろりと舐めていく。目を瞬かせるキュリオにフランシスコが笑った。
「涙の跡。泣いたんですね」
「――ッ、うるさい!」
ごしごしとこする様子にフランシスコは体を折って笑った。長い髪がサラサラとなびく。凝ったつくりの髪留めは今はしていないらしく見当たらない。
フランシスコの目がキュリオを見た。蘇芳色は闇を吸って血液の色になる。悪夢を呼び起こすその色はひどく目に灼きついた。飛び散る血飛沫は何年経っても記憶から消されることはなかった。
「私にとってはこれが傷ですよ」
指先が包帯をつんとつつく。仰々しく巻かれた包帯はキュリオの顔半分を覆う。短く切られた鳶色の髪を梳く。キュリオの唇をフランシスコの紅い舌がぺろりと舐めた。
「――ッな!」
体をそらすキュリオの様子にフランシスコが笑った。幼い頃から一緒にいる二人だ、それが本気かどうかくらい判る。芥子色の瞳が橙の光を帯びて琥珀のように煌めく。
「本当にびっくりしたんですよ? このままあなたを喪うんじゃないかと思って」
それが怖かった
それは嫌だった
それだけは
神様それだけは
やめて
神に祈った。血まみれで帰ってきたキュリオは少女を抱きかかえるようにして。慌ててキュリオを医者へ連れて行った。少女を気にかけながらその激痛に耐え。なんでもない顔をして少女に手すら振って医者の元へ向かった。
フランシスコがキュリオの胸へ顔を伏せた。笑う声が震え、肩が震えた。キュリオの服に縋りつく指先がフルフルと震えた。
「本当にあなたがいなく、なったらと思って…」
それはひどく恐ろしいのです
「フランシスコ?」
キュリオは不思議そうに言葉を紡いだ。フランシスコは顔を伏せたまま上げようとしない。白い指先がか細く震えた。不意に上を向いたフランシスコにキュリオがひるんだ。その隙をついてフランシスコは唇を重ねた。
フランシスコの瞳のように紅い唇が触れてくる。皮膚の白さに目の紅さが際立つように、唇の紅さは際立った。桜色の爪をした指先が優しくキュリオの頬を撫でる。彼が包帯の部分を特に執拗に撫でてくる。キュリオは黙って好きなようにさせている。
「ねぇ、この恐怖を忘れさせてくださいよ」
「俺には関係ないだろう」
「あなたの所為です。あなたが傷なんか負ってくるから」
キュリオがため息をつくとその広い肩も一緒に落ちた。フランシスコはそれを見てクスクスと笑う。
キュリオはフランシスコを振り解くとベッドへ腰掛けた。その脚の間へフランシスコは体を滑り込ませる。
「ねぇ、キュリオ」
フランシスコは上体を傾けて唇を重ねた。キュリオは体の力を抜いた。二人分の重みにベッドが軋んだ。フランシスコの手が這いまわりキュリオはされるがままだ。
「キュリオ」
フランシスコの呼びかけにキュリオは体で応えた。
明日のために準備をするのも
眠れなくなって部屋を訪れるのも
ついてしまった哀しい習い性
《了》