見えないそこにに思いをはせる
37:裏側の空を想う
パタパタと軽やかな足音が人気のない通路に響いた。一見黒色に見える髪は緑の艶を放つ暗緑色だ。襟足まで短く切った髪からは白いうなじが伸びている。丸い眼鏡の奥で煌めく瞳も髪と同じ暗緑色。片目の上を走る傷痕は痕こそ残っているものの日常生活に影響はないらしい。
通路は乏しい白色灯が発光しているばかりだ。時間帯を考えれば非常識なのだが目的の人物は変なところで常識がない。凛と自制する彼は必要となれば夜を徹することも厭わない。目的の部屋の前で一呼吸置いてから朝比奈は扉をノックした。扉が音もなく開いてその先には目的の人物がいた。
「藤堂さん!」
華やぐ朝比奈の声の真意には気付かず藤堂が不思議そうな顔をする。
「朝比奈? こんな時間にどうした」
「藤堂さんと話がしたくって。眠れないし、起きてたら一緒にいようかなーなんて思いまして」
それでも藤堂は朝比奈を邪険にしたりしない。元から藤堂は人に対する態度に変化をつけたりしない。分け隔てなくといえば聞こえがいいが、その実それがかなりの曲者であることを朝比奈は知っている。明らかに他意のあるディートハルトをスキンシップ過多で片付けてしまうのだから困る。朝比奈は日々その改善に苦慮しているが未だにその努力は報われていない。
「はいれ」
「ありがとうございます」
藤堂の唇を舐める様子に気付いた朝比奈がにこりと笑った。
「喉、渇きました? お茶を貰ってきましょうか」
「…それじゃあ、頼む」
うきうきと部屋を出て行く朝比奈の背中を藤堂が見送る。
「相変わらず仲がいいな」
ボイスチェンジャーを通したような声は朗朗と響く。
「朝比奈とは付き合いが長い」
「それだけか」
「ほかに何が」
ゼロがクックッと笑った。
「ディートハルトが歯噛みするわけだ」
「…何か、関係が?」
今度こそゼロが声を立てて笑った。
バサリとマントを翻したゼロの指先が藤堂の唇に触れた。サラサラとした布ざわりの衣服はゼロの体を指先から爪先に至るまで包み込んでいる。華奢で手脚の長いそれからは彼がまだ歳若なような気がするのだが、行動や論理が老獪さをもっている。普通の子供には出来ない芸当をさらりとやってのける。黒くてらてらとした仮面の奥に大きな瞳が見える気がした。
「奇跡の藤堂か。大仰な名前がついたものだな」
「まったくだ」
人を食ったような答えにゼロが体を折り曲げて笑った。うなじの辺りにハラハラと黒髪が見えた。艶やかなそれは仮面の奥はさぞやと思わせるほどなのだろうと推測された。
ゼロの指先がかっちりと詰まった襟に伸びて留め具を外していく。藤堂は動じることなくそれを見守っていた。ゼロはすぐに興味をなくしたように指先を離した。
「もう少しうろたえると思ったが」
「慣れている」
ゼロが仮面の奥で絶句したのが雰囲気で判った。細い指先が動かなくなり仮面は藤堂の方を向いたままだ。次の瞬間にはゼロが体を折って笑いをこらえた。長い脚がダンダンと床を踏む音がした。肩から頬を覆うほどに高い襟のマントの奥で体をよじっている。
藤堂は不思議そうにそれを見てから襟を直した。ゼロの指先がそれをとどめて喉に触れる。筋がぴんと張った喉を撫で喉仏に触れる。それをグッと押すと藤堂が息苦しそうに眉を寄せた。ゼロはそれを見てから手を離す。
「藤堂、目を閉じろ」
藤堂は言われるままに目を閉じた。不意に何かが動く気配に気をとられているうちに唇が重なった。思わず開こうとする目蓋をゼロの手が覆った。触れてくる唇は瑞々しい。少し熱いそれはゼロの体が火照っているのだろうか。濡れた舌先が歯列をなぞって離れていく。目の覆いを取られる頃にはゼロは仮面を嵌めていつもの無表情に戻っていた。
うなじの辺りに黒髪だけが覗く。瞳の色も判らない。それでも触れてくる唇はまるで子供のそれのようだと藤堂はひそかに思った。
「裏側の空をどう思う」
「裏側? …地球の、ということか」
「何でも構わない」
顎に手を当てて真面目に考え込む藤堂が妙に愛しい。
ゼロの仮面はその表情すらかき消した。けれどゼロがなんだか泣き出す前の子供のような雰囲気をまとっていることに気付いた藤堂は問いを口に出した。
「何かあったのか」
ゼロが息を呑んだのが判った。顔を覆うように仮面に手を当て、息を吐き出す。ため息のような吐息にはやりきれないような色が浮かんでいて藤堂は驚くと同時に戸惑った。ゼロは強烈なリーダーシップでで組織を率いてきた。弱さなど、微塵も見せることはなかった。
「…昔、聞かれた。裏側の空はどうだろうと」
血を吐くようなそれは独白にも似ていた。ゼロはどんな答えをその問うた者に返したのだろう。その体が途端に頼りなげに見える。支えを失った子供のようなありとあらゆる認識を否定されたような。痛々しいほどのそれは何故だか藤堂の哀れを誘った。
「…ゼロ」
「あぁッ藤堂さぁん!」
二つのコップを抱えた朝比奈の声にゼロがマントをひるがえした。その仮面の奥が微笑んだような気がした。朝比奈は口に出さない程度にゼロを検分するように見ている。丸い眼鏡の奥、暗緑色の瞳が煌めいた。ゼロは後ろ髪を引かれることもなく立ち去る。
その背中に藤堂は声をかけた。
「ゼロ!」
ゼロが振り返る。藤堂の言葉を待つように足を止めた。マントの裾がフワリと落ちた。
「裏側の空はきっと、晴れている」
ゼロがヒラヒラと手を振った。
「藤堂」
ゼロの声は張りを取り戻したような気がした。細い体躯が自信に満ちた。
「ありがとう」
立ち去り際に意味深な言葉を残した。
「なかなかの味だった」
朝比奈が耳ざとくそれを嗅ぎつけた。
「どういう意味ですか、ねぇ、藤堂さん!」
藤堂は朝比奈の手からコップをとると飲料を口に含んだ。乾いた口腔が満たされていく。液体を飲み下すとゼロが立ち去る背中が見えた。細い背中。
朝比奈はゼロを見送った後に藤堂に噛み付いた。
「ねぇ、何の話ですか? 裏側ってなんですか?」
「他愛ない話だ」
藤堂がクスリと笑った。
「えぇえー」
不満げに唸りながらも朝比奈は藤堂の後ろについて部屋に入った。ゼロは仮面の奥で笑った。
《了》