休むことのないあなたをゆっくりと
休ませてあげたいんです
33:羽根を閉じない蝶
薄い闇。ぴくぴくと目蓋が震えてうっすら開く。ごろりと寝返りを打つと腰の奥が軋むような痛みを覚えた。思わず眉根が寄る。ゆっくりと体を起こすと部屋の中でたたずんでいた人影が振り返った。闇になれた視界で輪郭が浮かび上がる。黒色に見える髪と瞳。それが暗緑色なのだと知っている。窓から差し込む月光が歳若い彼の容貌を浮かび上がらせた。
「あぁ、起きちゃいましたか。起こしました?」
彼の細い手がトレードマークの眼鏡を探して彷徨う。丸いそれを取って渡してやると彼がにっこりと微笑んだ。眼鏡をかけると見慣れた姿かたちになる。緑柱石の輝きで瞳が煌めく。事後の所為か上半身には何もまとっていない。それでもしなやかな体躯は見苦しくもなくさわやかだ。少し華奢にすら感じる体躯。痩せた腹。覗く腰骨の形。藤堂が体を起こしたそばへ朝比奈が腰を下ろした。頬に手を添えて朝比奈が口付けた。火照った体は心地好く境界を曖昧に融かしていった。
離れた唇。舌先が互いの先端を銀糸でつないだ。藤堂の日に焼けた皮膚の上を朝比奈の白い手が滑る。月明かりで仄白く光るそれは妙に艶やかだった。華奢な体躯は性別の境界線上にあるように危うい。紅一点の千葉と比べれば明らかに男性だが、同じ男性である藤堂と比べれば女性じみて細い。中性的な体躯はしなやかに四肢を動かし彼の感情をストレートに表現した。
少し濡れた藤堂の唇を朝比奈の指先がなぞった。
「よく眠れました? まだ夜ですけど。無理させちゃいましたか?」
「…何を考えていた」
窓辺にたたずむ朝比奈の顔が藤堂が見たそれらのどれよりも脆く崩れていきそうだった。普段はしたたかなほどに耐えうる朝比奈が妙に危うく感じた。朝比奈の意外な一面を見たような、見てはいけなかったような罪悪感すら抱かせるものだった。
藤堂の眼差しは鋭く朝比奈を射る。それは自身にも他者にも妥協を許さない。偽りすら暴かれてしまいそうなほど危うい。鋭いそれが両刃だと朝比奈は知っている。他者を傷つける鋭さは時に己の手すら貫く。藤堂らしいそれに朝比奈は笑った。藤堂に睨まれると体がすくむという。けれど朝比奈は全く別のことすら考えていた。この鋭いすべてを叩き壊してみたくなる。誇り高い獣。そのすべてを崩されたときこの男はどうするのだろう。
朝比奈は藤堂の手を取ると指先を口に含んだ。濡れた舌先が指先を舐って軽く吸い上げる。ちゅ、と響く音に藤堂が唇を引き結んだ。窺うように見れば目元を紅く染めて目をそらした。灰蒼の瞳は闇色に染まる。その目が朝比奈を見る。それだけで朝比奈はゾクゾクした。
「藤堂さん、照れてる?」
唇から指を解放した朝比奈がケラケラと笑った。
軽薄なそれに藤堂が救われていると知っている。だから朝比奈は軽く笑う。軽く振る舞う。藤堂が腹に溜めていた何かを吐きだすように息をついた。朝比奈の目が不意に眼鏡の影になって見えなくなる。それだけで藤堂の糸はぴんと張り詰めるような気がした。
「…ねぇ、藤堂さん」
朝比奈は顔を上げない。藤堂は辛抱強く朝比奈の言葉を待った。ククッと朝比奈が笑う声がする。それはどこか自嘲にも似た笑いだった。
「羽根を閉じない蝶、って知ってますか」
「…それは、蛾ではないのか」
「いいえ、蝶です」
乏しい知識を総動員して答える藤堂に朝比奈が笑った。
「きっと、そういう蝶って休んでないと思うんですよね。羽根を閉じたら休むでしょう、普通。だからきっと気を張り詰めているって言うか緊張を解いてないと思うんです。でも休まないなんて、疲れないのかなって思いませんか」
朝比奈が饒舌なのは今に始まったことではない。元々外交的で口数の多い性質だ。けれど普段のそれとどこか違うようなそれに藤堂は戸惑いを隠せない。それでも真面目に謳うような話を聞く。
朝比奈の目が潤んだように煌めいた。
「だからオレは、そういう蝶も休ませてやりたいなーなんて思うんですよ。でもどうすればいいかなんて全然判らなくって。色々試しては見るんだけど全部裏目に出るって言うか」
闇を含んで黒色になった髪がさらりと揺れた。朝比奈の頭がぽすんと藤堂の胸に倒れこんでくる。藤堂は黙ってそれを受け止めた。眼鏡の硬質な感触を皮膚に感じる。
「難しいなって、思いませんか」
朝比奈の声が震えていた。藤堂の指先が黙って朝比奈の髪を梳く。朝比奈の手が眼鏡を取り去り上向いて口付ける。濡れた舌が乱暴なほどに蠢き藤堂の口腔へ潜り込んでくる。暴挙を働く舌は逃げる藤堂の舌に絡んで吸い上げる。流し込まれる唾液を藤堂は嚥下した。
「ねぇ藤堂さん」
藤堂の喉がゴクリと鳴った。朝比奈が壊れ物のように笑んだ。
「藤堂さんみたいだと、思いませんか?」
朝比奈が泣き笑いのような顔を見せる。その半分が闇に融けた。仄白い月が半分を暴く。藤堂が身を乗り出す。唇が融けるように重なった。触れてくる熱の在り処は指でたどれそうなほど鮮明に。
羽根を休める余裕すらないのですか
羽根を休める程度の信頼もないのですか
貴方が休んでいる間くらい、任せてはくれませんか
藤堂の唇がゆっくりと離れていく。朝比奈はそのまま顔を伏せた。溢れる涙が頬を滑る。触れ合うだけの口付けが、抱擁以上の効果を朝比奈にもたらしていた。緊張が緩んでたがが外れていく。緩んだ涙腺に制御は利かず情けないと思うほどに涙が溢れた。
「私は蝶ではない」
「すみません、判ってます」
「…私はお前たちを信頼している」
真面目な藤堂の返答に笑いが零れた。
あぁこれで、いいんだ
朝比奈は乱暴に涙を拭うと顔を上げた。そのまま噛み付くように口付ける。間近に見えた藤堂の瞳は灰蒼で。それが思った以上に美しかった。それが、嬉しかった。
《了》